明治二年三月二十五日(新暦1869年5月6日)、榎本武揚率いる旧幕府軍は海軍力の劣っている穴を埋めるため宮古湾に停泊している新政府軍の旗艦「甲鉄艦」を奪取する斬り込み攻撃を実行しました。これが「宮古湾海戦」であり、これに用いた奪取作戦を「アボルダージュ」といいます。

開陽丸を江差沖で失った旧幕府軍は、海軍力の差を埋めるためこの作戦を敢行したが、作戦は失敗して多くの死傷者をだしました。さらに作戦に参加していた高雄丸を拿捕されるという憂き目にもありました。
当初は「回天丸」「蟠竜丸」「高雄丸」の三艦で実行する予定だったが、途中の暴風雨で「蟠竜丸」がはぐれてしまい、高雄丸は機関の故障により「回天丸」のみで実行することになりました。

回天丸は外輪船で甲鉄艦への横付けが困難なため、船首からぶつかり甲鉄艦に乗り上げてしまいました。この段階で斬り込み隊が斬り込みを行うが高さが3mも違う両艦では甚だ困難でした。旧幕府軍が甲鉄艦への乗り移りを躊躇している間、新政府軍は態勢を立て直し、反撃にでました。
※甲鉄艦へ体当たりする回天丸の勇士

結局、この作戦は失敗に終わり、先に書いたように高雄丸も失いさらに海軍の差が開いてしまいました。この作戦の失敗により、制海権は完全に新政府軍が握り蝦夷地への上陸をたやすく許すことになります。
現在の岩手県宮古市宮古湾には「宮古湾海戦の碑」が建っています。
碑は三つあります
宮古市内には海戦にまつわる碑が三か所あります。ひとつは浄土ヶ浜の御台場展望台入口に建つ「宮古港海戦記念碑」で、昭和四十三年(1968年)の明治百年記念に建てられたものです。所在地は宮古市日立浜町。
もうひとつが光岸地の大杉神社境内にある「宮古港戦蹟碑」で、題字は東郷平八郎の筆です。建立年には大正六年(1917年)とするものと、1907年に菊池長右衛門が別邸の対鏡閣に建て、のちに大杉神社へ移したとするものがあります。三つめは臼木山にある解説碑で、土方歳三と東郷平八郎の顔写真が入っています。
東郷平八郎の名が出てくるのは偶然ではありません。回天を追撃した新政府軍の「春日」に、砲術士官として若き東郷が乗っていました。のちの連合艦隊司令長官が、二十一歳でこの湾にいたことになります。
ガトリング砲はあったのか
『函館市史』は、甲鉄に積まれていた「一分間に百八十発撃てるガットリング機関砲の威力は絶大」と記しています。回天から飛び移ろうとした者が次々に倒れたのは、この砲によるとされてきました。
ただし、甲鉄にガトリング砲は搭載されていなかったという説もあります。乗っていた山県小太郎の発言を根拠とするもので、決着はついていません。高低差についても『函館市史』は「甲鉄の甲板が一丈ほども低くて飛込みが躊躇された」とし、一丈はおよそ三メートルですから、本文にある三メートルという数字と一致します。
死傷者の数も分かれています
数字は資料によって三通りあります。『函館市史』は旧幕府軍の死傷五十人余、新政府軍の死傷三十人余。辞典類は回天の戦死十九名・負傷約三十名、新政府側の戦死八名。別の資料は戦死十五名と四名としています。
主な戦死者は回天艦長の甲賀源吾で、弾丸が頭部を貫通しました。新選組の野村利三郎も、撤退に間に合わず戦死しています。ほかに大塚波次郎、矢作仲麿の名が挙がります。フランス人のニコールと新選組の相馬主計は負傷にとどまりました。戦闘時間はおよそ三十分です。
高雄の最期
機関の故障で作戦に加われなかった高雄は、そのあと追撃を受けます。田野畑村の説明によると、艦長の古川節蔵は追撃三艦に囲まれて自沈を決意し、「田野畑の沖で逃げ道を失った高雄は羅賀の浜に向け直進すると、岩礁に乗り上げた」といいます。別の記述では羅賀の対岸イシ浜に沈んだとし、乗組員は上陸して後に南部藩へ投降しました。
「日本初」と呼べるもの、呼べないもの
この海戦は「わが国初の洋式海戦」と呼ばれます。岩手県の観光公式も「日本海戦史上その名をとどめた」としています。一方で「装甲艦同士の戦い」ではありません。甲鉄は日本初の装甲艦ですが、回天は装甲を持たない外輪船です。装甲艦に、装甲のない船が体当たりを仕掛けた戦いでした。
なお宮古市内には市指定文化財として「官軍勇士の墓」と「幕軍勇士墓碑」があります。常安寺にある市指定史跡「官軍小西周右衛門の墓」(昭和五十四年七月二十四日指定)は、宮古市の調査カルテが「宮古港海戦の戦死者埋葬地ではありません」と明記しています。小西周右衛門は旧幕府脱走軍の追討で青森へ向かう途中、重病のため宿所の常安寺で亡くなった岡山藩兵でした。
場所・アクセス・地図
〒027-0001 岩手県宮古市日立浜町32



