| 弘済丸 | |||
| 藩名 | 伊予松山藩 | ||
| 藩主 | 松平勝成 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

紀州新宮藩が1859年に「丹鶴丸」として建造し、その後松山藩が購入し「弘済丸」と命名しました。
しかし、これが「弘口丸」という説もあります。
伊予松山藩が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている伊予松山藩の艦船は二隻で、内訳は輸送船が一隻、その他が一隻です。
- 小芙蓉丸/スクリュー汽船
- 弘済丸(この記事)/輸送船
数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。
伊予松山藩は徳川家に連なる親藩の名門で、幕末は佐幕の立場をとりました。鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方として参戦しますが、敗れると新政府軍(土佐藩)に城下を接収され、恭順して藩の存続を許されます。旧幕府方から新政府への恭順という、多くの親藩がたどった道を歩んだ藩でした。弘済丸はその転換期を生きた一隻です。
「弘済丸」と「弘口丸」は、同じ一隻です
当サイトには弘口丸というページがもう一つありますが、原名を丹鶴丸とし、紀州新宮藩が造ったものを伊予松山藩が買ったという来歴が、この記事とまったく同じです。同じ船を二つの表記で立てたものと考えられます。愛媛県の資料には「文久元年一月に艦船弘済丸」と見えており、県が採っているのは「弘済丸」のほうです。「弘口丸」という書き方は、ほかに用例を見つけられませんでした。どちらのページも残したうえで、相互に注記しておきます。
進水式で横になった船
もとの丹鶴丸を造らせたのは、紀州新宮藩の水野忠央です。忠央は柳川春三と宇都宮鉱之進に西洋の造船と操船の術を調べさせ、藩の蘭学所で『航海実測』や『造舶全論』を訳させたうえで、安政六年に三本マストの洋式帆船を造らせました。手がけたのは大脇道之助です。ところがこの船は進水式で横倒しになってしまい、「池田屋の新造横になりたがり」という狂歌が流れたと新宮市の資料は伝えます。宇都宮鉱之進が船底へ砂利を積んで姿勢を立て直し、江戸まで回航しました。水際での長さは十三間半、およそ二十四メートル半の船でした。
丹鶴は、新宮城の別の名です
新宮城には丹鶴城という別名があり、源為義の娘の丹鶴姫がここに住んでいたことに由来します。船の名がその城の別名から取られたと明記した資料は見あたりませんでしたが、藩の城の名と船の名が重なっているのは確かです。
文久元年には、すでに松山にありました
愛媛県の資料は三津と高浜の港について、文久元年一月に弘済丸が、慶応二年九月に小富士丸が繋留されたと記しています。丹鶴丸の進水が安政六年ですから、松山藩が買ったのは万延元年から文久元年にかけてということになります。買った日も値段も、その後どうなったのかも分かりませんでした。
弘済丸を船の型と持ち主から読む
弘済丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している伊予松山藩の船は、この弘済丸を含めて2隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ伊予松山藩の船には、小芙蓉丸(スクリュー汽船)があります。
持ち主の伊予松山藩と、安政六年の日本
同じころの日本
弘済丸が伊予松山藩の船となった安政六年(1859)は、日米修好通商条約にもとづいて横浜・長崎・箱館の三つの港が開かれた年です。六月から横浜で外国との貿易が始まり、生糸や茶が大量に輸出されるようになりました。一方で国内の物価は上がり始め、開国への反発も強まっていきます。
伊予松山藩では
伊予松山藩では、その数年前の安政元年(1854)に松山城の天守が再建されていました。いまに残る松山城の天守は、このとき完成したものです。城を建て直したのと同じころ、藩は洋式の船も持とうとしていたことになります。



