2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公として、いま改めて注目を集めている人物がいます。小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)。横須賀製鉄所を造り、日本の近代化を十数年も先取りしながら、明治という時代を一日も見ることなく、取り調べすらされずに斬首された幕臣です。
その最期の地が、群馬県高崎市倉渕町権田(ごんだ)にある東善寺。雨の降る日に、この寺と、小栗が切り開こうとした観音山の屋敷跡を歩いてきました。

権田村に隠棲した男と、東善寺
慶応4年(1868年)3月1日、江戸を追われるようにして小栗が辿り着いたのが、上野国群馬郡権田村(現・高崎市倉渕町権田)でした。東善寺を仮住まいとし、地元では水路を整備したり塾を開いたりと、静かな暮らしを送っていたといいます。米国への亡命を勧める声もあったといいますが、小栗はこれを丁重に断りました。
しかしこの静けさは長くは続きませんでした。閏4月4日、東山道軍の命を受けた軍監らが東善寺に踏み込み、小栗はここで捕縛されます。
小栗上野介忠順とはどんな人物か——遣米使節から横須賀製鉄所まで
小栗は文政10年(1827年)、江戸生まれ。安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准のため軍艦ポーハタン号で渡米した遣米使節の一員として、地球を一周して帰国しています。この渡米では、金銀の交換比率をめぐってアメリカ側と粘り強く交渉し、幕府の経済的な損失を防ごうとしました。
帰国後は外国奉行・勘定奉行などを歴任し、幕府財政の立て直しに奔走。そして慶応元年(1865年)11月、フランス人技師レオンス・ヴェルニーを首長に迎え、横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)の建設に着手します。職務分掌や雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制など、近代的な経営・労務管理の考え方を日本に持ち込んだのも、この事業を通じてのことでした。あわせてフランス軍事顧問団を招き、大砲や小銃の国産化も進めています。
江戸開城をめぐる対立と、隠棲の決断
戊辰戦争が始まると、小栗は江戸城の評定で主戦論を唱えます。箱根を降りてくる薩長軍を陸軍で迎え撃つと同時に、榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で叩き、補給の途絶えた薩長軍を殲滅する——という挟撃策でした。しかし将軍・徳川慶喜はこれを退け、恭順の道を選びます。
主戦論が容れられなかった小栗は江戸を去り、知行地であった権田村へ隠棲することを選びました。

捕縛、そして水沼河原での最期
閏4月4日に東善寺で捕縛された小栗は、取り調べらしい取り調べを受けることのないまま、翌々6日朝、烏川の水沼河原で斬首されました。享年42。ともに捕らえられた家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎も、同じ河原で命を落としています。
処刑の理由については、大砲や小銃を所持し農兵を訓練していたためとする説、勘定奉行時代に幕府の資金を隠したという、いわゆる「徳川埋蔵金」伝説に結びつけた説など、いくつかの見方があります。ただし、これらを裏付ける確かな根拠は今のところ見つかっていません。昭和7年(1932年)に地元有志が建てた碑には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれており、高崎市指定史跡になっています。
遺された家族——養子・忠道の死と、会津で生まれた娘
小栗の悲劇は、彼一人にとどまりませんでした。従妹・鉞子(よきこ)の婿として迎えていた養子の忠道(又一郎)も、その翌日、高崎で斬首されています。
処刑を目前にした小栗は、母のくに子、身重の妻・道子、養女の鉞子を村から脱出させました。一行はやがて会津へたどり着き、閏4月29日から6月10日のあいだに道子は女児を出産、国子と名付けられます。父の顔を知らずに生まれた子でした。
その後、旧小栗家の奉公人だった三野村利左衛門が、日本橋浜町の別邸に一家をかくまい、明治10年に没するまで面倒を見続けたといいます。国子はのちに親族の大隈重信に引き取られ、矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎えて小栗家を再興しました。
東善寺の境内、竹林を背にした一角には、小栗上野介忠順と養子・又一郎忠道、父子二人の名を刻んだ自然石の碑が並んで立っています。

裏山に眠る本墓
東善寺の裏山には、小栗の本墓があります。「小栗上野介忠順墓」と刻まれた標石は群馬県指定重要文化財。苔むした石積みの石垣を背に、静かに立っています。

すぐそばには宝篋印塔を頂いた二基の墓碑が並びます。丸石を積んだ石垣を背にしたこの一角が、東善寺における小栗家供養の中心地です。

観音山の屋敷跡——未完に終わった隠棲の夢
権田村での小栗は、ただ逼塞していたわけではありませんでした。東善寺を仮住まいとしながら、観音山に田畑と用水路を開発し、新たな邸宅の普請まで進めていたのです。しかし東山道総督府による追討によって、その計画は完成を見ることなく終わりました。
用水路は今も現役で使われており、屋敷跡には礎石が残っています。昭和57年、高崎市指定史跡に認定されました。


東善寺を出て、全国に散った小栗の足跡
小栗の斬首では首と胴が別々に扱われ、胴は村人の手で東善寺に葬られましたが、首は別の運命をたどりました。埼玉県さいたま市大宮区の普門院には、刻銘のない自然石の塚が残されており、これが小栗の首塚と伝えられています。かたわらには小栗家の宝篋印塔も置かれています。

そして東京・雑司ヶ谷霊園には、大正元年(1912年)9月、国子の婿として小栗家を継いだ貞夫が建てた「小栗家累代之墓」があります。権田村の本墓、大宮の首塚、そして雑司ヶ谷の家墓——一人の男の最期は、いくつもの土地に分かれて刻まれています。

横須賀に残る、もうひとつの小栗上野介——ヴェルニー公園
権田村や東京から遠く離れた神奈川県横須賀市にも、小栗の記憶を伝える場所があります。かつての横須賀製鉄所の跡地に整備されたヴェルニー公園には、小栗忠順とレオンス・ヴェルニー、二人の胸像が並んで建てられています。この製鉄所がなければ、日本の近代造船・重工業の歩みは大きく違ったものになっていたはずです。2027年の大河ドラマ放送にあわせ、横須賀市もこの公園でのガイドツアーを企画しています。


山門をくぐる手前、寺号標の脇には石灯籠とともに、もう一つ小さな石碑が立っています。刻まれているのは「山色豈非禅」——山の色もまた、禅そのものではないか、という意味の言葉です。取材に訪れたのはあいにくの雨の日でしたが、雨に濡れた境内の緑は普段よりも深く、静まりかえっていました。小栗上野介が捕らえられ、この山門から連れ去られてから百五十年以上が経ったいまも、ここをくぐる者を迎えるのは、変わらぬ山の色だけなのかもしれません。
東善寺を訪ねて
雨の降りしきる境内を歩きながら考えていたのは、小栗が権田村でやろうとしていたことの、あまりの「地味さ」でした。用水路を引き、田畑を開き、邸宅を構える——謀反でも抵抗でもなく、ただの生活の再建です。それすら許されずに、裁判もないまま河原で斬られた。その理不尽さが、雨に濡れた墓碑や標石の一つひとつから伝わってくるようでした。
そして小栗の足跡は、この権田村だけでは完結しません。首が眠る大宮、家墓のある雑司ヶ谷、そして彼が築いた横須賀製鉄所。日本の近代化を先取りしながら、その入り口で命を絶たれた男の記憶は、いくつもの街に少しずつ分かれて残されているのです。
東善寺へのアクセス・地図
東善寺は群馬県高崎市倉渕町169。JR高崎駅からバスで約50分です。小栗公の墓参のみであれば拝観無料とのことですが、詳細は事前に寺へお問い合わせください(電話:027-378-2230)。観音山の屋敷跡は東善寺から徒歩圏内にあります。
この記事の取材と情報源について
本記事は現地での取材に加え、以下の資料を参考にしています。処刑の理由や家族の消息については諸説あるため、可能な限り一次情報に近い記録を優先しましたが、今後の調査で内容を更新する可能性があります。
- Wikipedia「小栗忠順」
- 高崎市公式ホームページ「小栗上野介忠順終焉の地」
- 高崎市公式ホームページ「観音山小栗邸跡」
- 高崎観光協会「東善寺(小栗上野介)」
- 横須賀市「ヴェルニー公園ガイドツアー」案内ページ
- 「気ままに江戸」雑司ヶ谷霊園に眠る有名人シリーズ(小栗上野介忠順/夫人道子と遺児国子)
