桂井 隼太【海援隊士 幕末亀山社中】

桂井 隼太
出身 不明
職名

桂井隼太は龍馬暗殺前後の海援隊員で詳しいことはわかっていません。

龍馬暗殺後の新隊長「長岡謙吉」を中心とした海援隊として同志十二人の中の一人です。この一隊は旧幕領だった塩飽諸島と、小豆島東部の三か村を押さえています。桂井隼太はその時のメンバーの一人で大半が土佐藩の出身者でした。

その後の海援隊は讃岐諸島の治安維持部隊となり、塩飽諸島の平定に赴きました。
以降の桂井隼太についての詳細は不明です。

桂井 隼太【海援隊士 幕末亀山社中】

この人については、資料が見つかりませんでした

桂井隼太という名で調べても、当サイトのほかに記述を見つけられませんでした。広く引かれる海援隊の隊士一覧にも、隊士の出自を調べた研究の表にも、この名はありません。生まれた年も、どこの出かも、何をしたのかも分からないままです。

名の残らなかった隊士たち

海援隊の人数は、資料によって数え方が違います。事典の類はおよそ五十名とし、よく引かれる一覧は十五名から十六名ほどしか挙げません。隊士の出自を調べた研究の表は二十八名を並べますが、そのうち六名は出自が「不明」とされています。名は伝わっても素性の知れない人がかなりいて、名すら一覧から漏れる人もいる、というのが海援隊の実際です。桂井隼太は、その漏れたほうに入ります。脱藩した者が集まる組織でしたから、出入りの記録が残りにくかったのだろうと思われます。

目次

桂井隼太の生きた時代—咸臨丸と塩飽の水夫

咸臨丸の水夫たち 桂井隼太らが治めた塩飽諸島は、すぐれた船乗りを多く出した島々です。万延元年(1860)、日本人の手で初めて太平洋を渡った咸臨丸の水夫のうち、およそ三十五人が塩飽の出身でした。幕府は、長崎の海軍伝習所のころから、塩飽の船乗りたちを洋式の船の乗組員として集めていたのです。

島と海援隊 海の男たちの島を、同じく海で生きる海援隊が預かったことには、深い縁がありました。桂井ら海援隊士は、塩飽の人々の船乗りとしての誇りと自治の伝統を尊重しながら、島の暮らしを守ったと伝えられます。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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十三人の名が並ぶ任命書があります

慶応四年四月十二日、土佐藩が長岡 謙吉へ「讃州島ニ御用被仰付」という辞令を交付しました。海援隊が讃岐の島々を治めるという、正式な命令です。そこには十三人の名が並んでいて、桂井隼太はそのうちの一人でした。名を挙げると、八木彦三郎、波多彦太郎、勝間圭三郎、岡崎恭介、桂井隼太、橋詰啓太郎、島橋謙吾、武田保輔、得能猪熊、島田源八朗、島村要、堀兼司、長岡謙次郎—この十三人です。

島に残る神社の「十三」と、数が合います

この十三という数が、島に残る神社と重なります。小坂の八島神社は、もとは明治三年に海援隊士を「土州様」として大山神社へ合祀したものでした。大正七年になって十三人の名が分かったというので「十三神社」と改められ、昭和九年には、実際に島を受け持ったのがそのうちの数人だったと分かって「八島神社」になっています。御神体には長岡謙吉や八木彦三郎を含む十三人の名が記されていると伝えられますが、その十三人が右の辞令の十三人と同じかどうかを明言した資料は見つかりませんでした。数が合っていること、長岡と八木がどちらにも入っていることまでは言えます。くわしくは龍馬の死後、海援隊は瀬戸内の島を占領していたに書きました。

それ以外は、何も伝わっていません

桂井隼太について調べられたのは、この辞令に名があるということだけでした。読み方も、出身も、いつ隊に入ったのかも、維新後どうなったのかも分かりません。それでも、島を治める命令書に名を連ねた十三人のうちの一人だったことは確かです。龍馬が死んだあとの海援隊が何をしていたのかを知るうえで、この十三人の名簿は数少ない手がかりになっています。

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

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