山城長岡藩/永井家3万6千石:永井直清 摂津高槻藩へ加増転封のため廃藩

【藩名】
山城長岡藩

【説明】
山城長岡藩は江戸時代初期、現在の京都府長岡京市を領有した藩で、この地に長岡陣屋が築かれました。寛永10年(1633年)、書院番で上総国・下総国内に8000石を領する旗本の「永井直清」が、旧領地に加え山城国、紀伊国、摂津国内に領地を得て1万2,000石の大名に昇格しました。

山城長岡藩/永井家3万6千石:永井直清 摂津高槻藩へ加増転封のため廃藩【幕末維新写真館】

当初は長岡勝竜寺城に藩庁を構えていました。慶安2年(1649年)には2万4000石の加増を受けて高槻藩に転封となったため山城長岡藩は廃藩となりました。

【廃藩のあと——幕末の乙訓】

永井直清が摂津高槻へ移ったあと、乙訓郡には一つの領主というものがありませんでした。長岡京市の説明によれば、禁裏・宮家・公家・寺社の領地が複雑に入り組み、一つの村に複数の領主がいることも珍しくなかったといいます。幕府領の分は代官・小堀数馬が管轄していました。領主の支配が行き届かないぶん、村の自治が大きな役割を果たした土地です。

その乙訓を西国街道が縦断しています。京都と山崎・大坂を結ぶ幹線であり、幕末には軍勢の通り道になりました。元治元年(1864年)の禁門の変の前後には長州兵が粟生の光明寺に入り、本尊などが避難させられています。慶応三年(1867年)十二月にも長州兵が光明寺に着陣しました。鳥羽伏見の戦いの直前です。

禁門の変で敗れた真木保臣らが自刃した天王山は、すぐ南の大山崎にあります。長岡京市域は、長州軍が京へ出入りする山崎ルートの真上にあたっていました。

永井直清が館を構えた神足には、いまも地名が残ります。勝竜寺城公園には北門の石垣や礎石が遺り、土塁と空堀跡が復元されています。

【場所・アクセス・地図】

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