【藩名】
熊本藩(肥後藩)
【説明】
熊本藩2代藩主「加藤忠広」は、寛永9年(1632年)駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流となり、加藤家は断絶しました。代わって同年豊前国小倉藩より、「細川忠利」が54万石で入封し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として統治しました。

忠利は晩年の「宮本武蔵」を迎え入れ、武蔵は「島原の乱」で活躍したと伝わります。忠利死去の2年後、寛永20年(1643年)忠利への殉死をめぐり、森鴎外の小説で有名な阿部一族の反乱が起きました。2代光尚は7歳の綱利を残して早死したので御家断絶の危機となったが、3代「細川綱利」が家督を継ぎました。
幕末には藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれました。実学党の中心は「横井小楠」で、彼は藩政改革に携わったが後に失脚します。安政5年(1858年)福井藩主「松平慶永」の誘いにより政治顧問として福井藩に移りました。文久2年(1862年)江戸留守居役らとの酒宴中に刺客に襲われ、一人逃亡したという罪で翌年、熊本藩士の籍を剥奪されました。
慶応4年(1868年)1月3日の「鳥羽・伏見の戦い」では藩主「細川護久」が砲火を掻い潜って御所へ参内しこれを護衛したと伝わっています。江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦しました。その後、新政府より議定、刑法事務総督に任命され、同年4月23日、新政府側に与する確固たる意思を示すため、名を「喜廷」から「護久」に戻しました。
翌明治2年(1869年)3月には参与に任命されるが5月には病気を理由に辞職しています。明治3年(1870年)5月8日、兄「韶邦」が隠居すると、世子であった「細川護久」が跡を継いで熊本藩知事となりました。
★横井小楠を生み、そして持て余した藩
熊本藩五十四万石は、幕末の日本にひとつ大きな贈り物をしています。横井小楠という思想家です。
小楠は熊本藩士の家に生まれ、藩校時習館に学びました。ところが江戸遊学中の酒席での不始末で処分を受け、その後も藩内では容れられません。彼が説いた「交易によって国を富ませる」という考えは、当時の熊本ではあまりに急進的でした。
その小楠を招いたのが、越前福井藩の松平春嶽です。他藩の、しかも藩内で浮いていた思想家を、三十二万石の政治顧問として迎えました。
小楠が福井で説いた富国策は、三岡八郎(由利公正)に受け継がれ、その三岡が起草した「議事之体大意」が五箇条の御誓文の原文になります。
——熊本が持て余した男が、福井で日本の設計図を書いたのです。
小楠は維新後、新政府に出仕しますが、明治二年、京都で攘夷派に暗殺されました。開国論者であることが、殺される理由になった時代です。
学校党と実学党 ― 割れ続けた藩論
幕末の熊本藩は、藩論がまとまりませんでした。
時習館を拠点とする保守派の学校党、小楠の流れをくむ改革派の実学党、そして尊皇攘夷を掲げる勤王党。この三つが延々と争い、藩は最後まで態度を決めきれずにいます。
五十四万石という西国屈指の大藩でありながら、薩摩・長州・土佐のような主役になれなかったのは、この内部対立が大きい。——大きすぎる藩は、かえって動きにくかったのです。
維新のあとに来た嵐
そして熊本の本当の苦難は、維新後に来ます。
明治九年、神風連の乱。廃刀令と近代化に憤った旧士族が、熊本鎮台を襲撃しました。刀と槍だけで、銃を持つ鎮台兵に斬り込みました。この蜂起が秋月の乱、萩の乱を誘発し、翌年の西南戦争へとつながっていきます。
西南戦争では熊本城が五十日以上にわたって薩摩軍に包囲され、天守と本丸御殿は開戦直前に焼失しました。——幕末を戦わなかった藩が、維新のあとで最も激しい戦場になりました。
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