七戸城:九戸政実の乱で滅びた七戸家国の居城 七戸城【お城特集 日本の歴史】

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江戸に住む定府の小藩から、安政五年の城主格へ

七戸藩は文政二年に南部信鄰が一万一千石をもって諸侯に列した外様の小藩で、家禄五千石に蔵米六千石を加えた石高でした。当主は江戸に常住する定府の大名でしたが、安政五年に城主格へ改められます。国の史跡指定にあたって記された解説文にも、幕末に至って南部信誉が城主となり、子孫が相継いで明治維新を迎えたとあります。それまでの七戸は、寛文四年から盛岡藩直轄の代官所が置かれた土地でした。

戊辰戦争の千石減封と、明治二年に城跡へ移った藩庁

戊辰戦争で七戸藩は本藩とともに奥羽越列藩同盟に加わり、その責めを負って千石を減じられます。三代藩主の南部信民はこれを機に隠退し、明治二年、あらためて南部信方が北郡七戸地方三十八か村の領知を認められて版籍奉還に臨みました。歴代の藩主は、信鄰・信誉・信民・信方の四代です。七戸町の説明によりますと、七戸に藩庁が置かれたのは明治二年のことで、その場所がこの城跡でした。中世の南部一族が構えた台地の上が、二百数十年を隔ててふたたび政庁として使われたことになります。明治四年の廃藩置県では七戸県となり、弘前県を経て青森県へ改められました。

昭和十六年の史跡指定と、北館で続いた十三年の発掘

七戸城跡が国の史跡に指定されたのは昭和十六年十二月十三日で、平成元年と平成十二年に追加指定を受け、史跡の面積はおよそ十六万六千平方メートルに広がりました。曲輪は本城、下館、宝泉館、西館、角館、北館、貝ノ口に三つの外郭を合わせて十を数えます。北館では平成三年から平成十六年までの十三年をかけて約八千二百平方メートルが発掘され、掘立柱建物跡が百五十棟以上、竪穴建物跡が五十棟以上見つかりました。

七戸城について

七戸城は青森県上北郡七戸町にあった平山城です。
南部氏初代「南部光行」の四男「朝清」が七戸地方へ移り七戸氏を名乗ったと伝えられています。

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城としての築城は南北朝時代の「南部政長」により築城されたとする説と、室町時代に「南部政光」が築城したとされる説があります。戦国時代末期の天正十九年(1591年)、七戸城主「七戸家国」は「九戸政実の乱」で政実方につき九戸城に籠城し九戸氏と共に滅亡しました。

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その後七戸領は「南部信義(南長義)」の次男「南部直勝」に与えられ、七戸氏を継がせ南部藩の家老職として遇されました。元禄七年(1694年)、七戸政信は盛岡藩 5代藩主「南部行信」より五千石を分与され、南部家の分家として別家を立てます。ただしこの時点ではまだ大名ではなく、のちの七戸藩の母体となる家でした。

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文政二年(1819年)に六千石を加増されて都合一万一千石となり、ここで大名に列して七戸藩が成立します。幕末の「戊辰戦争」では本藩に従い「奥羽越列藩同盟」に参加しましたが新政府軍に敗れ、藩主「南部信民」は「信方」に当主の座を譲り隠居します。

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現在の七戸城跡は「柏葉公園」として整備されており、城の遺構としては水堀や土塁、復元された東門などが存在します。

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南部の馬と七戸

馬の産地 七戸の一帯は、昔から「南部駒」と呼ばれるすぐれた馬の産地でした。盛岡藩は領内に牧場を設けて馬を育て、各地へ売り出していました。七戸には藩の牧があり、馬市が開かれて、多くの馬が取り引きされています。

いまも馬の町 いまも七戸町は馬の町として知られ、競走馬の生産も行われています。町には「道の駅しちのへ」をはじめ、馬の文化を伝える施設があります。七戸城跡の周りには、南部氏の一族が治めたころの地名や町並みの名残が残っています。

七つの郭を並べた城の構造

柏葉城と呼ばれた台地の城

七戸城は別名を柏葉城といいます。作田川と和田川の合流点に近い台地の先端に築かれ、周囲との高さの差は約40メートルあります。本丸・二の丸・北館・下館・宝泉館・西館・角館の七つの郭を横に並べた「並列連郭式」の城で、郭はそれぞれ空堀で仕切られて独立しています。いまも空堀や帯郭、腰郭、虎口、武者隠しが残っています。

築いた人物については、説が分かれます。南部政長が築いたとする伝えがある一方、発掘調査をもとに、十四世紀後半に南部政光が築いたとする説もあります。北館の発掘で出土した遺物は、主に十五世紀のものです。

代官所から「要害屋敷」へ

九戸政実の乱で七戸家国が滅んだのち、寛文四年(1664年)に七戸は盛岡藩の直轄地となり、城内に代官所が置かれました。文化元年(1804年)、七戸の代官所は、城郭に次ぐ格式の「要害屋敷」として幕府に認められています。

元禄七年(1694年)に南部政信が5000石の旗本として別家を立てたのが、七戸南部家の始まりです。文政二年(1819年)に信鄰が加増されて1万1000石の大名となり、江戸に常に住む「盛岡新田藩」として扱われました。

野辺地戦争と、明治二年の再下賜

戊辰戦争で七戸藩は、宗家の盛岡藩とともに奥羽越列藩同盟に加わりました。明治元年九月の野辺地戦争では、「七戸隊」と呼ばれる部隊が弘前藩・黒石藩の兵を退けています。ただし、これは盛岡藩士の率いた部隊で、七戸藩が単独で戦ったという記録は確かめられていません。戦後に千石を削られたあと、明治二年正月には、処分に誤りがあったとして一万石があらためて与えられました。

青岩寺に移された城門

明治六年(1873年)に廃城と決まり、二層の楼門だった本丸の城門は、町内の青岩寺に移されました。門は大正十二年に上層を外され、間口も詰められています。本丸跡にはいま七戸神明宮が建ち、城跡には復元された東門と水堀があります。

場所・アクセス・地図

青森県上北郡七戸町七戸

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