竹田藩/赤松家2万2千石:赤松広秀(斎村政広)関ヶ原の戦いの地方戦で鳥取城を攻めるも城下が火災に包まれた責を負い切腹となり廃城

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竹田藩の歩み

最後の城主である「赤松広秀(斎村政広)」は「関ヶ原の戦い」では石田三成率いる西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも西軍は本戦で敗戦します。

竹田藩/場所・アクセス・地図 赤松家2万2千石:赤松広秀(斎村政広)関ヶ原の戦いの地方戦で鳥取城を攻めるも城下が火災に包まれた責を負い切腹となり廃城【幕末維新写真館】
写真提供:吉田利栄

その後徳川家康率いる東軍の「亀井茲矩」の誘いで鳥取城攻めに加わり城を落城させるが城下を大火にした責めを負い、家康の命によって慶長五年十月二十八日(1600年12月3日)、鳥取の真教寺で切腹しました。広秀の居城であった竹田城は家康の命により「山名豊国」が受取りに行き入城しました。その後江戸幕府の一国一城の方針により竹田城は廃城となりました。
写真提供:吉田利栄

廃藩のあと—幕末の竹田と、生野の変

慶長五年(1600年)、最後の城主・赤松広秀が鳥取城下を焼いた責めを負って切腹し、竹田城は廃城となりました。以後この地は幕府領となり、幕末の朝来郡は全域が生野代官所の管轄下にありました。大名のいない土地です。

その郡の中心にあったのが生野銀山でした。江戸時代を通じて鉱山の最高格である「御所務山」とされ、代官所から掛役人二名が昼夜詰め切りで取り締まっています。関西の貨幣経済を支えた山でした。

そして文久三年十月(1863年11月)、この生野で挙兵が起こります。生野の変です。

八月に天誅組が大和五条の代官所を襲い、直後の政変で長州が失脚。九月には天誅組も壊滅していました。その残り火のような計画でした。平野国臣と北垣晋太郎が立て、澤宣嘉を総帥に担いで三十七人が三田尻を発ちます。

十月十二日、生野代官所は無血で占拠されました。代官が出張で不在だったのです。誰とも戦わずに幕府の役所が手に入り、集まった農民はおよそ二千人にふくらみました。

しかし翌十三日、出石藩九百人と姫路藩千人が出動し、豊岡藩も鎮圧に動きます。総帥の澤宣嘉が脱け出して計画は瓦解し、河上弥市ら十三人が妙見山麓の山伏岩で自刃しました。平野国臣は捕らえられ、翌年京都で殺されます。わずか三日で終わりました。

ここで見落とせないのは、鎮圧に動いた藩に、同じ但馬の出石藩と豊岡藩が含まれていたことです。但馬の人間が但馬の人間を討った事件でもありました。そして農兵の組織化に尽力したのは、竹田出身の太田六右衛門です。朝来市内に顕彰碑が立っています。

竹田城跡は国の史跡で、「天空の城」として知られます。麓の竹田寺町通りには四つの寺が並び、赤松広秀の菩提寺である法樹寺もそのひとつです。生野代官所の跡地には昭和十五年(1940年)に生野義挙碑が建てられました。

播磨の名門・赤松氏の末裔

竹田城最後の城主・赤松広秀(広通とも)は、室町時代に播磨・備前・美作の守護を務めた赤松氏の一族です。赤松氏は、南北朝時代に足利尊氏を助けた赤松円心(則村)が興した名門で、嘉吉元年(1441)には当主の赤松満祐が六代将軍・足利義教を自邸で殺害する「嘉吉の乱」を起こして一度滅びかけました。その後再興したものの戦国時代には力を失い、広秀は分家筋の龍野赤松家の出として豊臣秀吉に仕え、天正十三年(1585)に竹田城の主となりました。

朱子学を支えた城主

広秀は、武将としてより学問の保護者として知られる人物です。のちに近世儒学の祖とされる藤原惺窩と親しく交わり、さらに朝鮮出兵で日本に連れてこられた朝鮮の儒学者・姜沆(カン・ハン)を支援しました。惺窩と姜沆は広秀の後ろ盾のもとで儒教の経典に日本式の読み方をつけた書物をつくり、これが江戸時代の朱子学の土台の一つになったといわれます。幕府の学問となった朱子学の出発点に、関ヶ原のあと切腹させられた但馬の城主がかかわっていたのです。

天空の城のつくり

竹田城は標高約三百五十メートルの山頂に、本丸を中心に南北へ曲輪を連ねた総石垣の山城です。石垣は自然の石を積み上げた野面積みで、近江の穴太衆の技術によるものと伝えられ、ほとんどが広秀の時代に整えられたと考えられています。廃城から四百年以上たっても石垣が当時の形をよく残しているため、秋から冬の朝に雲海に浮かぶ姿は「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれるようになりました。

竹田藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—広秀が来るまでの竹田城

竹田城は、但馬の守護・山名宗全(持豊)が築かせ、家臣の太田垣光景を初代の城主にしたと伝わります。永享三年(1431年)に工事を始め、嘉吉年間(1441〜1444年)に完成したともいわれます。

戦国時代の終わり、羽柴秀吉の中国攻めのなかで、秀吉の弟・羽柴秀長の軍に囲まれて城は落ちました。天正八年(1580年)からは秀長の家臣・桑山重晴が城を預かり、天正十三年(1585年)に赤松広秀が二万二千石で城主となります。四国攻めの手柄に対するほうびでした。

藩主・赤松広秀の歩み

広秀は永禄五年(1562年)、播磨国龍野城(いまの兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀の子として生まれました。元亀元年(1570年)ごろ、父と兄が相次いで亡くなったため、幼くして家を継いでいます。

天正五年(1577年)、秀吉が播磨に攻めこむと龍野城を明け渡しました。その後は秀吉の家臣・蜂須賀正勝の下につく与力として働き、秀吉の家臣団に加わっていきます。名前ははじめ「広英」で、のちに「広秀」、さらに「広通」と改めたとされます。

同じ時代の大きな出来事

広秀は秀吉の天下統一の戦いに次々と加わりました。天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、翌年の小牧・長久手の戦い、天正十五年(1587年)の九州攻め、天正十八年(1590年)の小田原攻めです。文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵では、兵八百人を率いて海を渡り、釜山の城の守りについたとされます。

城の石垣と領民の苦労

いまに残る総石垣の城は、広秀の時代に仕上げられたと考えられています。この大工事には十三年がかかり、領地の農民たちは重い負担に苦しんだとも伝わります。学問を大切にした城主の、もう一つの顔といえるかもしれません。

領地のようす

竹田城は、いまの兵庫県朝来市和田山町竹田にあります。昭和十八年(1943年)に国の史跡に指定され、平成十八年(2006年)には「日本100名城」に選ばれました。円山川沿いの竹田の町は、但馬から播磨へ抜ける道の要所でした。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万二千石のこの藩はおよそ五百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。豊臣時代の朝鮮出兵で広秀が率いたとされる八百人は、この目安よりかなり多い数でした。

参考:Wikipedia「斎村政広」「竹田城」、コトバンク「竹田城」

場所・アクセス・地図

竹田の現地を歩いた記録

竹田藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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