【藩名】
竹田藩
【説明】
最後の城主である「赤松広秀(斎村政広)」は「関ヶ原の戦い」では石が三成率いる西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも西軍は本戦で敗戦します。

写真提供:吉田利栄
その後徳川家康率いる東軍の「亀井茲矩」の誘いで鳥取城攻めに加わり城を落城させるが城下を大火にした責めを負い、家康の命によって慶長5年(1600年)12月3日、鳥取真教寺にて切腹しました。広秀の居城であった竹田城は家康の命により「山名豊国」が受取りに行き入城しました。その後江戸幕府の一国一城の方針により竹田城は廃城となりました。
写真提供:吉田利栄
【廃藩のあと——幕末の竹田と、生野の変】
慶長五年(1600年)、最後の城主・赤松広秀が鳥取城下を焼いた責めを負って切腹し、竹田城は廃城となりました。以後この地は幕府領となり、幕末の朝来郡は全域が生野代官所の管轄下にありました。大名のいない土地です。
その郡の中心にあったのが生野銀山でした。江戸時代を通じて鉱山の最高格である「御所務山」とされ、代官所から掛役人二名が昼夜詰め切りで取り締まっています。関西の貨幣経済を支えた山でした。
そして文久三年十月(1863年11月)、この生野で挙兵が起こります。生野の変です。
八月に天誅組が大和五条の代官所を襲い、直後の政変で長州が失脚。九月には天誅組も壊滅していました。その残り火のような計画でした。平野国臣と北垣晋太郎が立て、澤宣嘉を総帥に担いで三十七人が三田尻を発ちます。
十月十二日、生野代官所は無血で占拠されました。代官が出張で不在だったのです。誰とも戦わずに幕府の役所が手に入り、集まった農民はおよそ二千人にふくらみました。
しかし翌十三日、出石藩九百人と姫路藩千人が出動します。総帥の澤宣嘉が脱け出して計画は瓦解し、河上弥市ら十三人が妙見山麓の山伏岩で自刃しました。平野国臣は捕らえられ、翌年京都で殺されます。わずか三日で終わりました。
ここで見落とせないのは、鎮圧に出たのが同じ但馬の出石藩と豊岡藩だったことです。但馬の人間が但馬の人間を討った事件でもありました。そして農兵の組織化に尽力したのは、竹田出身の太田六右衛門です。朝来市内に顕彰碑が立っています。
竹田城跡は国の史跡で、「天空の城」として知られます。麓の竹田寺町通りには四つの寺が並び、赤松広秀の菩提寺である法樹寺もそのひとつです。生野代官所の跡地には昭和十五年(1940年)に生野義挙碑が建てられました。
【場所・アクセス・地図】

