【藩名】
大森藩
【説明】
大森藩は滋賀県東近江市に陣屋を構え、江戸時代前期に存在した藩です。元和8年(1622年)、お家騒動により改易された出羽山形藩主「最上義俊」が蒲生郡・愛知郡・甲賀郡、三河国内に1万石を与えられ大森藩を立藩しました。
義俊は寛永8年11月22日(1632年1月13日)に数え27歳で死去しました。翌寛永9年(1632年)家督を継いだ嗣子「最上義智」は僅か1歳だったため知行地を蒲生郡周辺に半減され、5千石の交代寄合となり廃藩となります。しかし、最上家は交代寄合として明治維新まで存続し続けました。
【廃藩のあと——出羽五十七万石の末裔は、近江の旗本として幕末を迎えた】
この藩の面白さは、廃藩で話が終わらないところにあります。
最上騒動で山形五十七万石を失った最上義俊が、元和八年(1622年)に近江と三河で一万石を与えられて大森に入りました。寛永八年(1631年)に義俊が亡くなると、子の義智は幼少を理由に五千石へ減らされます。大名ではなくなりましたが、家は絶えませんでした。以後、最上家は交代寄合の旗本として幕末まで続きます。
義智は家光に仕え、寄合に列して代々一万石以上の格式で扱われ、元禄八年(1695年)には京都への使者を務めるなど幕府の信頼を得ました。大森陣屋を築いたのも義智です。
幕末の当主は最上義連。文久三年(1863年)に大番頭となって大坂に在番し、元治元年(1864年)に従五位下・出羽守となりました。かつて出羽を治めた家の子孫が、出羽守を名乗って大坂城を守っていたことになります。慶応二年(1866年)に大番頭を辞し、駿河守と改めました。
そして明治元年、義連は戊辰戦争で官軍に資金と糧食を差し出し、本領を安堵されます。明治二年に士族となり、明治三年の版籍奉還で永世禄百五十石を賜って、二百年以上治めてきた大森の地を離れました。京都府の貫属士族となり、隠居後は京都で商売を営んでいます。山形から近江へ、そして京都の商人へ。大名家の終わり方としてはかなり異色です。
陣屋の跡は東近江市大森町、いまの玉緒小学校の一帯です。建物は残っていませんが、県道沿いに「最上氏大森陣屋跡」の石碑が立ち、石塔寺に陣屋の門が移築されて現存します。菩提寺の妙応寺には旗本最上家の墓所があります。
【場所・アクセス・地図】

