川成島藩の歩み
川成島は代々、大身旗本である本郷氏が支配していました。本郷氏は若狭大飯郡の出身で室町幕府の奉公衆でした。戦国時代には織田信長や徳川家康に仕えていたといわれています。江戸時代末期の安政四年(1857年)、「本郷泰固」は側衆から若年寄に昇進したため、所領を七千石から一万石に加増されて川成島藩を立藩しました。しかし、安政五年(1858年)に職務怠慢を理由に若年寄職を罷免されました。その後、五千石を削られて大名ではなくなり、隠居・謹慎も命じられて、川成島藩は廃藩となりました。
この藩は安政の大獄で消えました
川成島藩は安政四年(1857年)に立ち、安政六年(1859年)に消えました。二年しかありません。場所は駿河国富士郡川成島、いまの静岡県富士市、新富士駅の南側です。
藩主の本郷泰固は将軍の側衆をつとめた旗本でした。安政四年、幕政改革の功で側衆から若年寄に昇進し、七千石から一万石に加増されて大名の列に入ります。ところが翌安政五年七月に若年寄を罷免され、安政六年十月には五千石を削られたうえ隠居・謹慎を命じられました。表向きの理由は職務怠慢ですが、実際は一橋派と見なされたため—安政の大獄の一環とされています。井伊直弼の粛清の波が、富士山の裾野の一万石を丸ごと消したことになります。
廃藩後の川成島村は旗本領でした。富士郡は百五十村あまりのうち旗本領が百七村を占めています。泰固の子・泰清は旧領に住み続け、三椏の生産と製紙業の振興に関わりました。
この地が大きく動くのは明治元年(1868年)です。五月二十四日、田安亀之助が駿河・遠江などで七十万石を与えられて駿府藩が立つと、駿河の三藩と遠江の四藩がすべて上総・安房へ移されました。沼津藩は上総菊間藩へ、田中藩は安房長尾藩へ、小島藩は上総桜井藩へ。徳川宗家が静岡に入るために、東海の大名がまとめて房総へ押し出された形です。
川成島の陣屋の長屋門は、富士宮市大宮町に移築されて保存されています。
将軍のそばに仕えた本郷家
本郷家は、若狭国大飯郡本郷(いまの福井県おおい町)を名字の地とする家で、室町時代には将軍に直接仕える奉公衆でした。江戸幕府が開かれたころには本郷信富が奏者番を務め、以後は旗本として続きます。泰固の祖父・本郷泰行は十代将軍・徳川家治のもとで御側御用取次という、将軍と老中のあいだを取りつぐ要職にありました。代々、将軍の身近で働いた家だったのです。
泰固自身も文化十年(1813)に家督を継ぎ、天保八年(1837)に御側衆となってから、天保十三年、弘化二年、嘉永四年と加増を重ね、七千石の大身旗本になっていました。安政四年(1857)八月の若年寄就任と一万石への加増は、その積み重ねの頂点でした。
将軍の跡継ぎ争いに巻き込まれて
泰固が若年寄になったころ、幕府では十三代将軍・家定の跡継ぎをめぐって、一橋慶喜を推す一橋派と、紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派が争っていました。安政五年(1858)四月に井伊直弼が大老となり、慶福を跡継ぎに決めると、一橋派と見なされた人々が次々に処分されます。泰固の失脚もその流れの中にあったと考えられています。
のちに一橋慶喜が将軍後見職として幕府の中心に戻ると、泰固の隠居・謹慎は許されました。将軍の跡継ぎに推した慶喜によって、名誉だけは取り戻したことになります。
同じころの江戸—ハリスの江戸城登城
アメリカ総領事の将軍拝謁 川成島藩の本郷泰固が若年寄を務めていた安政四年(1857)の十月、アメリカの総領事ハリスが下田から江戸に入り、江戸城で将軍徳川家定に拝謁しました。外国の外交官が江戸城で将軍に会うのは初めてのことです。ハリスは、通商条約を結ぶよう幕府に強く迫りました。
条約調印へ 翌安政五年(1858)、大老・井伊直弼のもとで日米修好通商条約が結ばれます。同じ年には将軍の跡継ぎをめぐる争いにも決着がつき、一橋慶喜を推した人々は処罰されました。本郷泰固が若年寄を罷免されたのも、この政争に巻き込まれたためでした。
将軍から猪をもらった若年寄—本郷泰固と長屋門
瘞賜豬碑—猪の骨を埋めた碑
川成島藩主・本郷泰固は、二千石の旗本・本郷泰久の子です。嘉永二年(1849年)三月、小金原で行われた将軍家慶の狩りで、泰固は猪を一頭いただきました。祖父の泰行が鹿をいただいた前例にならい、下屋敷にその骨を埋めて碑を建てています。碑の名は「瘞賜豬碑」で、文章も清書も泰固本人です。この碑はいまも豊島区駒込に残っています。下屋敷はのちに木戸孝允の別邸になりました。家格は譜代です。
若年寄から一気に転落
泰固は安政四年(1857年)に若年寄となり、大名に取り立てられました。ところが、将軍の跡継ぎ問題で幕府が揺れた安政五年(1858年)七月に罷免され、五千石を取り上げられて旗本に戻ります。罷免と減封の時期は資料によって一年ほど違いがあります。
陣屋の長屋門は「歴史の館」に
川成島村(いまの静岡県富士市)は、延宝二年(1674年)から本郷家の知行地でした。陣屋は大名になってから天王社の前に造られ、明治以後は用人の和田家が受け継ぎました。陣屋の長屋門は料亭の正門として使われたのち、平成十五年(2003年)に富士宮市が取得し、いまは「長屋門 歴史の館」になっています(富士宮駅から徒歩約十分)。また用人の渡辺楷助が村の訴訟の解決に尽くした話は、『江戸の訴訟 御宿村一件顛末』(岩波新書)にまとめられています。
猪の碑が残り、藩は残らなかった
将軍からもらった猪を記念して碑を建てるほど、将軍のそばにいることを誇りにした殿様が、政争ひとつで大名の座を失う。駒込の小さな碑は、幕末の政治の激しさの中で消えた、わずか二年ほどの藩の記念碑でもあります。
川成島藩をもっと詳しく
奏者番の始まりとされる本郷信富
本郷家は鎌倉時代から若狭国に本領を持ち、足利尊氏の代から将軍家に仕えてきた家です。泰固の先祖にあたる本郷信富は足利義輝に仕え、義輝が三好長慶と対立して京都を追われたときには、自分の城に義輝を迎え入れました。その後は足利義昭、織田信長に仕え、まもなく徳川家康の招きに応じて家康に属します。慶長7年(1602年)に山城国綴喜郡で500石を安堵され、翌年に家康が将軍になると、室町幕府以来の故実を伝える家として奏者番に任じられ、伏見に屋敷を与えられました。奏者番は、大名や旗本が将軍に拝謁するときに名前を披露し、献上品を取り次ぐ役目で、儀礼の作法に通じていることが求められました。信富を奏者番の初めとする説と、それより前に任じられた人がいたとする説があります。信富は慶長10年(1605年)に伏見で亡くなりました。
2000石の旗本が富士郡へ
信富の嫡子・頼泰は父より先に亡くなったため、家は孫の勝吉が継ぎました。勝吉は御使番などを務めて2300石まで加増されましたが、その子の泰勝が弟に分知したため、知行は2000石になります。延宝2年(1674年)、泰勝の養子・久泰が家督を継いだ年に、川成島村が本郷家の知行地となりました。さらに宝永2年(1705年)には、甲斐国八代郡にあった知行地も駿河国富士郡へ移されています。久泰から5代目の泰行は10代将軍・徳川家治の御側御用取次を務め、その孫が泰固です。本郷家は大名になるまでの約150年間、旗本としてこの地を治めていました。
富士川のほとりの村
川成島は富士川の東側に開けた村です。永禄11年(1568年)には武田信玄の軍勢がここに陣を置きましたが、洪水に遭って退いたという記録が残ります。慶長7年(1602年)には、東海道で富士川を渡す渡船の役目が、川成島村から対岸の岩淵村へ移されました。大きな川のそばで水と付き合ってきた土地だったことがうかがえます。
陣屋があった川成島のあたりには、昭和63年(1988年)3月13日に東海道新幹線の新富士駅が開業しました。地元の請願で設けられた駅で、総事業費132億円余りのおよそ半分を富士市が負担しています。わずか2年ほどの藩の陣屋跡は、いまは新幹線の駅のすぐ南に位置しています。
1万石の大名としての動員の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっています。これを川成島藩の石高に当てはめて十人単位に丸めると、動員兵力の目安はおよそ240人です。この規定は案のまま発布されなかったとする説もあります。7000石の旗本から3000石の加増で大名になった本郷家にとって、1万石の格式は若年寄という役職と一体のものでした。若年寄は老中を補佐して旗本や御家人を監督する役で、ふつうは譜代の大名が務めます。役職に見合う家格を整えるための加増だったため、職を失うと同時に石高も削られることになりました。
許されたのはいつか、陣屋はどうなったか
泰固の謹慎が解かれた時期については、桜田門外の変で井伊直弼が亡くなったあとの万延元年(1860年)9月とする資料と、のちに幕政の中心に戻った徳川慶喜によって許されたとする資料があります。泰固が失脚した安政5年は、日米修好通商条約の調印と安政の大獄が続いた年でした。川成島の陣屋の建物は、昭和14年(1939年)から翌年にかけて大部分が取り壊され、いまは堀と石垣の一部が残るだけです。泰固の子の泰清は、幕府が倒れたあとも旧領に住んで旧幕臣を受け入れ、富士製紙の工場誘致にも関わったとされます。徳川家が駿府藩として駿河に移ってきたのち、旧領主の家が地元の産業づくりに加わっていたのです。



