【藩名】
川成島藩
【説明】
川成島は代々、大身旗本である本郷氏が支配していました。本郷氏は若狭大飯郡の出身で室町幕府の奉公衆でした。戦国時代には織田信長や徳川家康に仕えていたといわれています。江戸時代末期の安政4年(1857年)、「本郷泰固」は側衆から若年寄に昇進したため、所領を7000石から1万石に加増されて川成島藩を立藩しました。しかし、安政5年(1858年)に職務怠慢を理由に若年寄職を罷免されました。翌年10月27日には改易され、川成島藩は廃藩となりました。
【この藩は安政の大獄で消えました】
川成島藩は安政四年(1857年)に立ち、安政六年(1859年)に消えました。二年しかありません。場所は駿河国富士郡川成島、いまの静岡県富士市、新富士駅の南側です。
藩主の本郷泰固は徳川家斉の側衆をつとめた旗本でした。安政四年、幕政改革の功で側衆から若年寄に昇進し、七千石から一万石に加増されて大名の列に入ります。ところが翌安政五年七月に若年寄を罷免され、安政六年十月には五千石を削られたうえ隠居・謹慎を命じられました。表向きの理由は職務怠慢ですが、実際は一橋派と見なされたため——安政の大獄の一環とされています。井伊直弼の粛清の波が、富士山の裾野の一万石を丸ごと消したことになります。
廃藩後の川成島村は旗本領でした。富士郡は百五十村あまりのうち旗本領が百七村を占めています。泰固の子・泰清は旧領に住み続け、三椏の生産と製紙業の振興に関わりました。
この地が大きく動くのは明治元年(1868年)です。五月二十四日、田安亀之助が駿河・遠江などで七十万石を与えられて駿府藩が立つと、駿河の三藩と遠江の四藩がすべて上総・安房へ移されました。沼津藩は上総菊間藩へ、田中藩は安房長尾藩へ、小島藩は上総桜井藩へ。徳川宗家が静岡に入るために、東海の大名がまとめて房総へ押し出された形です。
川成島の陣屋の長屋門は、富士宮市大宮町に移築されて保存されています。
【場所・アクセス・地図】

