綾部藩の藩祖は戦国時代に織田信長に仕えて名を馳せた水軍の将「九鬼嘉隆」の孫「九鬼隆季」です。嘉隆の死後、その後を「九鬼守隆」が継ぎましたが、守隆が寛永九年(1632年)に死去すると、三男の「九鬼隆季」と五男の「九鬼久隆」との間で家督争いが起こりました。守隆が生前に五男の久隆を嫡男に選んだのが原因ですが、徳川幕府はこれを機に九鬼氏御家騒動を受けて久隆を摂津国三田藩へ移封させ、隆季には綾部へそれぞれ移封させました。この移封により九鬼氏は嘉隆以来の故郷である志摩国鳥羽藩の地を失うことになりました。
幕末の動乱に入ると、藩主「九鬼隆都」は文久元年(1861年)六月十日に家督を子の「九鬼隆備」に譲って隠居します。隆備ははじめ佐幕派でしたが、「禁門の変」で御所の警備を務めた頃から次第に新政府に与するようになりました。そして、慶応四年(1868年)一月には「西園寺公望」を通じていち早く新政府側に恭順しました。
その後、隆備は明治二年(1869年)の版籍奉還により綾部藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県により綾部藩は廃藩となります。その後、綾部県を経て、京都府に編入されることとなりました。
海を失った水軍—九鬼家が丹波の山へ
綾部藩の九鬼家は、志摩の九鬼水軍の子孫です。九鬼嘉隆は織田信長に仕えて志摩を統一し、伊勢湾から畿内にかけての制海権を担いました。関ヶ原では父の嘉隆が西軍、子の守隆が東軍と、親子が分かれて戦っています。
その水軍の家が、海のない丹波の山あいへ移されました。
きっかけは寛永九年(1632)の守隆の死です。跡目をめぐって家中が二つに割れました。守隆は五男の久隆を後継に指定していましたが、三男の隆季がこれに反対します。幕府の裁定は寛永十年、遺言どおり久隆が家を継ぐものの二万石を削られて摂津三田へ移し、隆季には丹波に新たに二万石を与えるというものでした。隆季が実際に綾部へ入ったのは寛永十一年と伝えられます。
つまり鳥羽五万六千石が、三田三万六千石と綾部二万石に割られたわけです。しかも移された先は、三田も綾部もどちらも内陸でした。お家騒動の裁定によって、九鬼水軍は分裂したまま海から引き離されたことになります。のちに五百石を分与して一万九千五百石となりました。
禁門の変で御所を守り、いち早く新政府へ
幕末の藩主は九代九鬼隆都(たかひろ)と、文久元年に跡を継いだ十代九鬼隆備(たかとも)です。
京都に近い丹波の藩ですから、幕末の綾部藩は都の警備に駆り出されました。隆備は文久三年(1863)に京都警備を命じられ、翌元治元年(1864)に上洛して孝明天皇に拝謁しています。同じ年の禁門の変では、京都御所の警備を務めました。
藩論はもともと佐幕でしたが、御所を守った経験を境に、しだいに官軍の側へ傾いていきます。そして慶応四年(1868)正月、山陰道鎮撫総督の西園寺公望を通じて、いち早く新政府へ帰順しました。
このころの丹波は、鎮撫使の進軍に合わせて次々と帰順が続いています。正月六日に亀山藩、七日から八日に園部藩、十二日に篠山藩、十四日から十五日に福知山藩。西園寺は綾部藩をはじめとする諸藩へ征討の大号令と農商への布告を発しました。戦わずに藩の向きが変わっていったのが、丹波の戊辰です。
陣屋跡はいま、大本の聖地
綾部藩は城を持たない陣屋大名でした。隆季は寛永十一年にまず由良川沿いの下市場に陣屋を築きますが火災で焼け、慶安四年(1651)に上野の台地へ新たな陣屋を構えます。上野町一帯に武家屋敷、田町や本町を町家として城下町を整えました。
その陣屋跡には、いま大本の本部である長生殿が建っています。明治二十五年に出口なおが開いた教団の聖地が、九鬼家の陣屋の跡地なのです。
藩校は進徳館です。三代隆直の時代に開かれたとする資料と、正徳5年(1715年)の開校とする資料があります。幕末に隆備がこれを篤信館と改め、翌年には藩内六か所に郷学校を設けて庶民の教育に力を入れています。二万石に満たない藩としては、思い切った投資でした。
明治二年に綾部知藩事、明治四年の廃藩置県を経て、隆備は明治十七年に子爵となりました。
水軍の家から講武所総裁と哲学者へ—綾部藩の九鬼家
海を失った九鬼水軍
綾部藩の九鬼家は、戦国時代に志摩の海を支配した九鬼水軍の家です。家督争いの末、寛永十年(1633年)に本家は摂津三田へ、九鬼隆季は丹波綾部へ移され、海から離れた山あいの藩になりました。綾部を流れる由良川の舟運は、江戸時代には河口の由良湊から福知山までが中心で、綾部まで舟が上った記録ははっきりしません。家格は外様です。隆季は寛文元年(1661年)、弟の隆重に五百石を分け、隆重の家は一門の家老家として続きました。家督を争った三田の九鬼家は、のちに綾部から三人も養子を迎えています。
九代隆都—佐藤信淵と講武所
九代藩主・九鬼隆都は、農政学者の佐藤信淵を招いて農政を改め、山鹿流の兵学者を招いて軍制も改めました。弘化四年(1847年)には木綿会所をつくって専売制をしき、財政を立て直しています。安政二年(1855年)には幕府の講武所の総裁となりました。水軍の家の子孫が、幕府の軍事教育の頂点に立ったのです。
九鬼隆一と九鬼周造
綾部藩の一門家老家の養子になったのが九鬼隆一です。隆一は文部少輔や帝国博物館総長を務め、岡倉天心やフェノロサとともに古美術の調査を進めました。その四男が、『「いき」の構造』で知られる哲学者・九鬼周造です。
陣屋跡のガラスの招き猫
最後の藩主・九鬼隆備は、大政奉還のあといち早く新政府に従いました。明治四年に隠居して弟に家督を譲り、弟の死後にもう一度家を継いでいます。陣屋跡からはガラス製の招き猫が出土し、「綾部藩領絵図」は綾部市の文化財になっています。海の覇者の家が、山の藩で学問と美術の人を育てた。綾部の九鬼家は、海を失ったあとも別の形で名を残しました。
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九鬼家の前に綾部を治めた別所家
九鬼家が入る前、丹波のこの地を治めていたのは別所吉治です。吉治は但馬八木から丹波へ移され、慶長20年(1615年)の大坂の陣の功で加増されて2万石を領しました。この藩は綾部藩とも由良藩とも呼ばれます。ところが寛永5年(1628年)、病と称して鷹狩りにふけり参勤を怠ったなどとして改易されました(年月日には諸説あります)。その5年後の寛永10年(1633年)、鳥羽の家督争いの裁定によって九鬼隆季が2万石で綾部に入ります。吉治の家はのちに赦免され、子孫は旗本として続きました。
27か村と7つの組
綾部藩の領地は、丹波国何鹿郡と天田郡のうちの27か村でした。領内の支配は郡奉行が担い、町方には町年寄を置き、村方は7つの組に分けてそれぞれに大庄屋を置いています。陣屋の周りの城下町は本町など6町で、家数は250軒前後でした。幕末の藩士は200名あまりです。藩主は隆季から隆備まで九鬼家が10代続き、なかでも4代隆寛(たかのぶ)は正徳3年(1713年)から明和3年(1766年)まで、50年を超えて藩主の座にありました。
水害と強訴、5万両の借金
由良川沿いの綾部は水害の多い土地でした。2代隆常のころから大洪水や暴風雨が続いて多くの死者が出たと伝えられ、このころから藩の財政が傾きはじめます。3代隆直の時代には財政が行き詰まり、藩札の発行、倹約令、家臣の給米の削減といった立て直しが試みられました。宝暦2年(1752年)には惣領強訴と呼ばれる百姓の強訴が起き、その後も洪水や干ばつ、飢饉が重なるたびに一揆が起こっています。幕末の安政4年(1857年)には藩の借財が5万両にのぼり、さらに2811両を新たに借り入れました。9代隆都が天保11年(1840年)に農政学者の佐藤信淵を招いて農村の立て直しを図り、弘化4年(1847年)に木綿会所をつくったのは、こうした窮乏が背景にありました。
本家・三田藩を継いだ隆都の三男
かつて家督を争った本家筋の三田藩にも、幕末の綾部から藩主が出ています。9代隆都の三男で、最後の藩主・隆備の弟にあたる九鬼隆義です。安政6年(1859年)、三田藩主の九鬼精隆が急に亡くなったため、綾部から養子として入って跡を継ぎました。隆義は下級藩士の白洲退蔵らを登用して藩兵の装備を洋式に改め、鳥羽・伏見の戦いの直後から新政府の側に立っています。明治になると神戸へ移り、明治6年(1873年)に白洲退蔵らと貿易商社の志摩三商会をおこしました。隆備と同じく明治17年(1884年)に子爵となりました。
動員兵力の目安
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定では、1万石あたり235人を出すことになっています。これを綾部藩の1万9500石に当てはめると、戦時に用意すべき人数の目安はおよそ460人です。ただしこの規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。幕末の藩士が200名あまりだったことを考えると、藩士だけではとても届かない人数でした。
明治以降の九鬼家
最後の藩主・九鬼隆備は、明治4年(1871年)11月に隠居して実弟の寧隆(やすたか)に家督を譲りました。明治9年(1876年)に寧隆が亡くなると隆備がふたたび当主となり、明治17年(1884年)7月に子爵を授けられています。隆備は明治30年(1897年)7月に64歳で亡くなりました。隆季が500石を分けた弟・隆重の家は、その子孫が維新後の官僚としての働きによって男爵となっています。慶応4年(1868年)の正月、綾部藩は隣の山家藩の谷家、福知山藩の朽木家と同じく、戦わずに新政府へ帰順しました。丹波の小藩はこうして家を明治へつなぎました。



