竹中氏陣屋:竹中半兵衛の嫡子重門が関ヶ原の戦い後に築城した竹中氏陣屋【お城特集 日本の歴史】

目次

天保の道場「菁莪堂」から幕末の陸軍奉行へ

岩手の旗本竹中家は、天保年間に道場「菁莪堂」を設け、家中の子弟に文武両道を指導しました。この学びの場を受け継いで幕末を迎えた当主が竹中重固で、元治元年に幕府の陸軍奉行となり、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍を指揮して薩摩・長州の軍と戦い、敗れました。重固はその後も屈せず、箱館で榎本武揚の軍に身を投じています。吉野春山という変名も伝わります。

櫓門はなぜ壊されずに済んだのか

維新後、陣屋の建物は取り壊しの危機に直面しました。垂井町の調査資料によれば、このとき高橋弥八郎らが「櫓門は菁莪学校の正門である」と主張し、明治八年に学校の正門として位置づけられたことで門が救われたと伝わります。菁莪堂は菁莪義校、菁莪学校へと姿を変え、櫓門は昭和二十年ごろまで教室としても使われました。旗本の身分でありながら現存する城郭建造物はこの門だけとされ、間口六間、奥行三間の木造白壁塗りが往時の構えを今に伝えています。

県史跡としての陣屋跡と千石濠

陣屋跡は昭和三十一年三月二十八日に岐阜県の史跡に指定されました。櫓門の南側には幅五メートルほど、長さ二十メートルほどの濠が残り、その一部には千石濠という呼び名が伝わります。なお垂井町の資料は、重門が岩手に水濠をめぐらせた館を構えた時期を慶長十三年とし、当初は岩手城と呼ばれたものの、のちに千石を分知して五千石の旗本にとどまったため陣屋と呼ばれるようになった、と説明しています。

竹中氏陣屋について

竹中氏陣屋は岐阜県不破郡垂井町にあった竹中氏の陣屋跡です。
羽柴秀吉の軍師として名高い「竹中半兵衛」の嫡男「重門」が、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、もともと親しかった「黒田長政」の呼びかけに応じ東軍に投じると戦後、本城の菩提山城を廃して山麓に館を構えたのが始まりとされます。垂井町の資料は、その時期を慶長十三年としています。

竹中氏陣屋/アクセス・場所・地図 竹中半兵衛の嫡子重門が関ヶ原の戦い後に築城した竹中氏陣屋【お城特集 日本の歴史】

竹中氏陣屋/アクセス・場所・地図 竹中半兵衛の嫡子重門が関ヶ原の戦い後に築城した竹中氏陣屋【お城特集 日本の歴史】

この軍功により重門は家康より本領六千石を安堵され、徳川家の旗本に取り立てられました。のちに千石を分知したため、以後は五千石の旗本として続きます。江戸期を通じて竹中氏が陣屋を統治し幕末に至ります。なお、幕末の当主「竹中重固」は江戸幕府陸軍奉行に任じられ、慶応四年(1868年)に勃発した薩長と徳川幕府との戦い「鳥羽・伏見の戦い」で敗戦すると竹中陣屋を没収されてしまいます。

竹中氏陣屋/アクセス・場所・地図 竹中半兵衛の嫡子重門が関ヶ原の戦い後に築城した竹中氏陣屋【お城特集 日本の歴史】

重固はその後も蝦夷地で展開された函館戦争が終結するまで徳川家の一員として戦い続けました。結果、六千石あった所領は三百石にまで減らされたといいます。なお、現在の竹中氏陣屋跡には櫓門や石垣、水堀などの遺構が残されており、竹中半兵衛の像も建立されています。

竹中氏陣屋/アクセス・場所・地図 竹中半兵衛の嫡子重門が関ヶ原の戦い後に築城した竹中氏陣屋【お城特集 日本の歴史】

竹中半兵衛と黒田長政

名軍師・竹中半兵衛 竹中氏陣屋を築いた竹中重門の父は、豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛(重治)です。半兵衛は美濃の斎藤家に仕えていたころ、わずかな手勢で主君の居城・稲葉山城を乗っ取ってみせたという逸話で知られます。その後、秀吉に仕えて数々の戦いで知略をふるいました。

松寿丸を救った話 天正六年(1578)、秀吉の家臣・黒田官兵衛が荒木村重に捕らえられたとき、織田信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、人質として預かっていた官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じました。半兵衛はひそかに松寿丸を自分の領地にかくまって命を救ったと伝えられます。長政はその恩を生涯忘れませんでした。

学校になったから、門だけが残った

この陣屋の櫓門が残っている理由は、建物の値打ちが認められたからではありません。学校の正門だったからです。

垂井町の調査資料によりますと、維新後に取り壊しの話が出たとき、高橋弥八郎らが「櫓門は菁莪学校の正門である」と主張し、明治八年に学校の正門として位置づけられたことで門が救われました。つまり、幕末の当主が天保年間の道場菁莪堂を受け継いでいたこと、その道場が菁莪義校・菁莪学校へと姿を変えたことが、門の命を助けたわけです。

そして門は昭和二十年ごろまで教室としても使われました。旗本の格式を示す櫓門が、七十年にわたって子どもたちの教室だったということになります。同じころ各地の城門が「不要な旧物」として壊されていったのを思うと、学びの場として現役でいたことが、この門の残った決め手でした。

旗本の建物が残っているという珍しさ

この門については、もうひとつ押さえておきたい点があります。旗本の身分でありながら現存する城郭建造物はこの門だけとされていることです。

大名の城であれば門や櫓が各地に残っていますが、旗本の陣屋は規模が小さく、維新後にほとんど跡形もなくなりました。竹中家は慶長の軍功で六千石を安堵され、のちに千石を分知して五千石。領地に城を構える大名ではなく、館を陣屋と呼ぶ身分です。

その格の建物として、間口六間、奥行三間の木造白壁塗りが残っている。陣屋跡は昭和三十一年三月二十八日に岐阜県の史跡に指定され、櫓門の南には千石濠と呼ばれる濠の一部も残っています。

竹中氏陣屋の構造と、最後の当主

菩提山城から麓の陣屋へ

竹中氏の陣屋の前身は、竹中重元が永禄二年(1559年)に築いた菩提山城です。重元は竹中半兵衛の父にあたります。半兵衛の子・重門が、山城から麓の岩手に陣屋を移しました。陣屋は旗本の屋敷としては珍しく、堀と石垣を備えた城郭のような構えで、いまも櫓門と石垣の一部、水堀の一部が残っています。跡地の多くは岩手小学校の敷地となっています。

竹中重固と純忠隊

幕末の当主・竹中重固は、慶応三年に若年寄並・陸軍奉行に就きました。鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍を率いて敗れ、官位を剥奪されます。その後は純忠隊を組んで奥羽を転戦し、箱館まで渡りました。明治二年に投降したのち、福岡藩に預けられています。竹中家はこれで所領を失い、改めて三百石が与えられました。陣屋跡は昭和三十一年に岐阜県の史跡に指定されています。

場所・アクセス・地図

岐阜県不破郡垂井町岩手

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