藩の歩み
土佐藩邸跡に建立された坂本龍馬像

土佐藩鮫洲抱屋敷と浜川砲台の八門
銅像が立つ品川区東大井の一帯は、江戸時代に土佐藩が構えた下屋敷の跡にあたります。品川区の説明によりますと、土佐藩がこの大井村に下屋敷を得たのは万治元年ごろで、抱え地を合わせた広さは一万六千八百九十一坪、いまの浜川中学校を中心とする範囲に及びました。さらに立会川河口の左岸、浜川橋のたもとには荷揚げ場として八百六十九坪の屋敷地も持っていました。嘉永六年のペリー来航を受け、その再来航のあとの安政初年には河口左岸へ砲台が築かれ、浜川台場あるいは浜川砲台と呼ばれます。据えられた大砲は八門と伝わり、土佐藩は江戸湾の海防の一角を担いました。若き日の龍馬がこの地の守備についたという話も、像が建てられた由来になっています。
山内容堂が二年半を過ごした大井村の屋敷
この屋敷は、幕末の土佐を動かした前藩主にとっても忘れがたい場所でした。品川区の解説によりますと、安政の大獄のさなか、山内豊信は安政六年二月に隠居を願い出て容堂と号し、同年九月に大井村の下屋敷へ移ります。ところが十一月には幕府から謹慎を命じられ、以後およそ二年半をこの屋敷で謫居として過ごしました。謹慎が解かれたのは文久二年四月のことです。詩歌と酒を友とし、品川海晏寺の僧との清談で憂いを晴らしたと伝えられており、のちの大政奉還の建白へ向かう容堂の雌伏の日々が、立会川のほとりに刻まれています。
草履履きの二代目銅像と復元された大砲
いまの銅像は、しながわ観光協会の説明では平成二十二年に京浜ロータリークラブから寄贈されたもので、平成十六年に高知市から贈られた像に続く二代目にあたります。桂浜の像と違って顔立ちは二十歳ごろに寄せられ、足元も長靴ではなく草履という、全国でも珍しい姿です。近くの新浜川公園には、平成二十七年に地元の人々の募金で復元された大砲が据えられています。八門のうちの一門、三十ポンド六貫目ホーイッスル砲を原寸で再現したもので、砲身の長さは三メートル、車輪の直径は一メートル八十センチに達します。
手紙には「品川」も「砲台」も出てきません
十九歳の龍馬がこの地の守備についたという話は、品川区もしながわ観光協会も「とされています」「といわれている」と伝聞の形で書いています。根拠として引かれるのは、嘉永六年九月二十三日に父・坂本八平直足へ送った手紙です。
そこにはこうあります。「異国船御手宛の儀は先免ぜられ候が、来春は又人数に加はり可申奉存候」。続けて「異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候」。
読み直すと分かるのですが、この手紙は異国船に備える任を一度は免じられたと書いているだけで、品川とも浜川砲台とも書いていません。十九歳が「異国の首を打取り」と勢いよく書いている、その熱だけが確かです。結びつけは後世の解釈であって、そこは正直に分けておきたいところです。年齢も、報道は十九歳、像のテーマは二十歳で揺れています。
初代の像はプラスチックでした
いまの銅像が二代目である経緯には、砲台の発見がからんでいます。平成十六年三月に屋敷跡から砲台の礎石が見つかり、それを高知市へ知らせた返礼として、高知市のホテルにあったプラスチック製の龍馬像が贈られたのだそうです。当初はイベントごとに運ばれ、平成二十一年十月に現在地へ固定されました。
平成二十二年十一月、東京京浜ロータリークラブが中心となって制作費およそ千五百万円を集め、重さ五百二十キロのブロンズ像が完成します。プラスチックの初代は、土佐藩下屋敷の跡にあたる区立浜川中学校へ移りました。「桂浜の像の型から取った」という説明を見かけますが、一次の資料では裏が取れませんでした。二代目は現存する写真から若い日の姿を再現したもので、桂浜像の複製とは別のものです。
涙橋のたもとに立っています
像のすぐ近くを流れるのが立会川で、そこに架かるのが浜川橋、別名「涙橋」です。この先の南大井に鈴ヶ森刑場がありました。慶安四年の開設で、大経寺の境内に題目供養塔が残ります。高さは三メートルを超え、裏面に元禄十一年の年号が入っています。
橋の名の由来として、刑場へ送られる罪人と家族がここで涙を流して別れたと語られます。この由来を自治体の公式な説明で確かめることはできませんでした。鈴ヶ森刑場跡の文化財指定の種別も、品川区・観光協会いずれの説明にも明記が見つかりませんでした。
幕末の海防の砲台と、江戸の刑場と、龍馬の像が、五百メートルほどの範囲に収まっています。土佐から出てきた十九歳が、その両方のあいだを歩いていたことになります。
場所・アクセス・地図
〒140-0011 東京都品川区東大井2丁目25−22



