郡上八幡城:戦国期は遠藤慶隆が城主であり幕末時は青山家の居城 郡上八幡城【日本の歴史 お城特集】

永禄二年(1559年)八幡山の上に遠藤盛数が砦を築き、これが郡上八幡城の起源となります。
その後嫡男の「遠藤慶隆」が城主となるが織田信孝の傘下に属していたため羽柴秀吉によって追放されました。

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関ヶ原の戦いの功績により再び慶隆が城主となるが、江戸期を通じて様々な城主が入れ替わり江戸末期には「青山家」が城主として明治維新を迎えています。

大政奉還後の会津戦争では国元は新政府軍に与し、江戸詰の藩士からは「郡上藩凌霜隊」を組織し旧幕府軍として会津戦争へ出兵しています。藩の存続をかけての二股行為は厳しい小藩の定めなのでしょうか。

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郡上藩凌霜隊は会津籠城戦にも最後まで参戦し降伏・開城後は故郷の郡上八幡へ護送され禁固刑や入牢させられました。

現在の郡上八幡城は1933年(昭和八年)模擬天守として再建され、全国的にも珍しい木造で造られました。内部は歴史資料館などとして利用されています。小規模な天守だがそこから眺める景色や風景はとても美しいものがあります。

郡上八幡城:戦国期は遠藤慶隆が城主であり幕末時は青山家の居城 郡上八幡城【日本の歴史 お城特集】

目次

江戸藩邸で生まれた凌霜隊と、十七歳の隊長

郡上八幡城の公式の説明によりますと、凌霜隊は江戸藩邸に詰めていた郡上藩士たちが幕府への義を貫くために編成した小隊で、隊長はわずか十七歳の朝比奈茂吉でした。人数は藩士と小者をあわせて四十五名、装備はスペンサー銃など当時の最新鋭をそろえていたと伝えられます。国元が新政府の側に付いたことを思えば、この四十五名は藩の名を背負いながら、同時に藩から切り離された存在でもありました。

赤谷の揚屋から解放まで、およそ十五か月

会津若松城の籠城戦を白虎隊らとともに戦い抜いた隊士たちは、降伏ののち国元へ送り返され、藩命に逆らったという言い渡しのもとで赤谷の揚屋へ入れられます。その後は長敬寺に移され、自宅での謹慎を経て、すべての処分が解かれたのはおよそ十五か月後のことでした。現在は城の松の丸や城山の中腹に、凌霜隊をたたえる碑が建てられています。帰る場所で罪人として扱われた若者たちの名を、郡上の町はいまも刻み続けています。

天正期の石垣と、日本最古の木造再建天守

岐阜県によりますと、八幡城跡は吉田川と小駄良川に挟まれた城山にあり、山頂には天正期以降の各時期の石垣がほとんど完全な形で残っています。指定は昭和三十年八月三十日の県指定史跡で、所在地は郡上市八幡町一ノ平です。明治三年に建物は石垣を残して取り壊されましたが、郡上市は、現在の木造四層五階建ての天守を木造の再建城としては日本一古いものとし、市の重要文化財に指定していると説明しています。別名を積翠城といいます。

郡上一揆と金森家の改易

郡上一揆 郡上八幡城の城下は、江戸時代の中ごろ、大きな百姓一揆の舞台となりました。宝暦四年(1754)、藩主の金森頼錦が年貢の取り立て方を改めようとしたことに農民たちが反発し、江戸へ出て幕府に直訴するなど、四年あまりにわたって抵抗を続けたのです。郡上一揆と呼ばれます。

藩主の改易 この一揆は幕府の評定所で裁かれ、藩主の金森頼錦は領地を取り上げられて改易となりました。一揆のために大名家が取りつぶされるのは極めて異例のことです。幕府の老中や若年寄まで処分を受けました。そのあとに入ったのが青山家で、幕末まで郡上を治めることになります。

凌霜隊は十七歳が率いていた

郡上藩凌霜隊のことを調べていて意外だったのは、隊長の年です。

郡上市の公開資料によりますと、凌霜隊は江戸藩邸にいた四十五名の藩士のうちの一部で編成され、これを率いたのが江戸家老・朝比奈藤兵衛の子朝比奈茂吉、弱冠十七歳でした。会津若松城では白虎隊とともに籠城しています。

国元は新政府側、江戸詰は旧幕府側。この割り方を決めたのは大人たちで、旧幕府側の旗を実際に持って会津まで行ったのは十代の少年でした。

帰ってから一年半、牢に入っていた

開城後、凌霜隊は郡上へ護送されます。待っていたのは、赤谷の揚屋への投獄でした。郡上市の説明では、釈放されたのは一年半後。そして釈放された隊士の多くは、郡上を離れていきました。

藩を守るための二股だったはずですが、その片方を担った者は、帰郷しても故郷に居場所がなかったということになります。顕彰の碑が建てられたのは、ずっとあとのことです。いまは旧本丸と天守台のある松の丸の二か所に凌霜隊の碑が立っています。

青山家四万八千石のうち、郡上は二万四千石

幕末の郡上藩主・青山家の石高は四万八千石ですが、そのうち郡上にあったのは二万四千石で、ちょうど半分です。残りは飛び地でした。江戸藩邸に四十五名もの藩士がいて、国元と江戸で判断が分かれた背景には、この領地の分かれ方もあったのだろうと思います。

大垣城を模した、日本最古の木造再建天守

いま山上に建つ天守は昭和八年の再建で、大垣城を模して造られた木造の模擬天守です。郡上八幡城に本来どのような天守があったかは分かっておらず、だからこそ大垣城が手本になりました。

ただ、鉄筋コンクリートの復元が主流になる前の木造だったため、結果として現存する木造再建城としては日本最古という立場になりました。城跡は昭和三十年八月三十日に岐阜県の史跡に指定されています。

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郡上八幡城の城主と、凌霜隊のその後

稲葉貞通の改修

遠藤盛数が築いた砦を近世の城に改めたのは、天正十六年(1588年)に入った稲葉貞通です。関ヶ原の戦いののちは遠藤慶隆が城に戻り、石垣や櫓を整えました。その後、遠藤氏、井上氏、金森氏、青山氏と、五つの家の十七代が城主を務めています。

メートル法を伝えた藩主

幕末の藩主・青山幸哉は、西洋の度量衡を調べた『西洋度量考』を編み、日本で初めてメートル法を紹介したとされる人物です。郡上藩は山あいの小藩でしたが、藩主は新しい知識にも目を向けていました。

凌霜の森

会津で戦った凌霜隊の隊士たちは、郡上に戻されたのち、罪人として監禁されました。赦されたのは明治三年二月のことです。郡上八幡城の天守の裏手の「凌霜の森」には、隊士四十五人の名を刻んだ慰霊碑が建てられています。

場所・アクセス・地図

岐阜県郡上市八幡町柳町

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