高取城:日本三大山城の一つ植村家政が配領 幕末には吉村虎太郎ら天誅組から攻撃を受けた高取城【お城特集 日本の歴史】

高取城は現在の奈良県高市郡高取町にあった日本三大山城の一つです。築城者は南国朝時代に護良親王に呼応して挙兵した「越智氏」によるものと伝わっています。戦国時代に入ると織田信長より大和一国を拝領した「筒井順慶」の支城として整備されその役目を果たしました。

高取城:日本三大山城の一つ植村家政が配領 幕末には中山忠光を主将とする天誅組の攻撃を受けた高取城【お城特集 日本の歴史】

高取城:日本三大山城の一つ植村家政が配領 幕末には中山忠光を主将とする天誅組の攻撃を受けた高取城【お城特集 日本の歴史】

豊臣秀吉の時代になり筒井家が移封となると大和一国は豊臣秀長(秀吉の弟)が治める地となりました。高取城には秀長重臣の本多家が城主に任命され、この時近代的な山城としての本格的な改修が行われました。本多家は継嗣がなくその後改易となり、桑山氏・小出氏が城番を務めました。

寛永十七年(1640年)になると徳川家の旗本「植村家政」が城主に任命され二万五千石を拝領しました。植村家は江戸時代を通じてこの地を支配しましたが、幕末になると天誅組の攻撃を受けます。天誅組は公卿の中山忠光を主将とし、土佐藩を脱藩した吉村寅太郎らが総裁を務めた一隊でした。

高取城:日本三大山城の一つ植村家政が配領 幕末には中山忠光を主将とする天誅組の攻撃を受けた高取城【お城特集 日本の歴史】

高取城:日本三大山城の一つ植村家政が配領 幕末には中山忠光を主将とする天誅組の攻撃を受けた高取城【お城特集 日本の歴史】

しかし、天然の要害のおかげもあり見事に撃退しています。そのまま明治維新を迎え、明治六年に廃城となって建物は取り払われました。ただし石垣は残され、いまも高石垣がそびえています。城の構造は石垣が多く使われ、特に高石垣は目を見張るものがあります。本丸には三重からなる天守・小天守が存在し、櫓・曲輪も多く多聞櫓は小天守と連結されおり近世城郭の体を成していました。

現在の高取城は国の史跡に指定され、日本100名城61番にも選定されています。

目次

文久三年八月二十六日、鳥ヶ峰に響いた大砲

五條市の説明によりますと、天誅組は十津川郷士九百六十人の来援を得て高取城へ攻め寄せましたが、あえなく撃退されました。高取町の案内では、いったん恭順を約させた高取藩に兵糧の差出を拒まれたため城の奪取を図り、五條から重阪峠を越えて紀路を進んできたところを、高取藩兵が鳥ヶ峰のあたりで大砲と鉄砲を浴びせて撃ち破ったと伝えます。奈良県も、高取城攻めは大砲の反撃によって敗退に終わったと記しております。

五條代官所から高取城まで、わずか九日

奈良県によりますと、天誅組は文久三年八月十三日から十四日にかけて京都で結成され、その数はおよそ四十名でした。主将には公卿の中山忠光を戴き、総裁として土佐藩を脱藩した吉村寅太郎ら三名が名を連ねます。八月十七日に五條代官所を襲って代官鈴木源内ら五人を斬り、櫻井寺に五條御政府を置きましたが、翌十八日の政変によって一日で逆賊の立場へ転じました。高取城攻めは、その九日後の出来事です。九月二十四日、天誅組は鷲家口でほぼ壊滅します。

比高三百九十メートルと、白漆喰の二十九棟

奈良県によりますと、麓から本丸までの高低差である比高は三百九十メートルにおよび、これは日本一の数字です。かつては白漆喰塗りの天守や櫓が二十九棟も建ち並びました。高取町の資料では、国の史跡「高取城跡」への指定は昭和二十八年三月三十一日付で、管理は奈良県が担っております。廃城は明治六年ですが、高さ十メートルほどの高石垣は人の手で壊されることなく、ほぼ完全な姿で残ります。

土佐街道の城下町と「巽高取」

白い城 高取城は、標高およそ580メートルの高取山の上に築かれた山城で、備中松山城・美濃岩村城と並んで日本三大山城の一つに数えられます。白い漆喰の壁の櫓が山上にいくつも並ぶ姿は遠くからもよく見え、「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」とうたわれました。

植村家と城下 江戸時代の寛永年間からは植村家が城主となり、明治まで二万五千石で治めました。山のふもとには「土佐街道」と呼ばれる城下町が残り、古い町家が並んでいます。山上の城まで登ることもできますが、山道を一時間ほど歩く覚悟が必要です。途中には眼病の祈願で知られる壺阪寺もあります。

高取城の縄張りと、天誅組を退けた戦い

越智氏の支城から近世の山城へ

高取城は、元弘二年(1332年)に南朝方の越智邦澄が築いたと伝わります。はじめは、越智氏の本城だった貝吹山城の支城でした。近世の城としての縄張りを整えたのは、天正十七年(1589年)に入った本多利久とされます。ただし文化遺産オンラインの解説は、いまの城郭がいつ築かれたかは「詳細は不明」としています。近世の初めに造られ、植村氏の時代に補修されたと推定しています。

標高583メートルの石垣の城

高取城は、標高583メートル、ふもととの高さの差が約350メートルある連郭式の山城です。郭は山頂に向かって段々に連なり、北の前方部は谷と堀で大手方面を守っていました。南の中心部に、本丸・二の丸・三の丸が置かれています。本丸は高さ約八メートルの石垣に囲まれ、天守と小天守が建っていました。石垣は、石の角をたたいて合わせる打込はぎで積まれています。

二千人で迎え撃った鳥ヶ峰

文久三年八月二十六日の明け方、天誅組が高取城をめざして攻め寄せました。高取藩の藩士はおよそ二百人でしたが、領民を集めて約二千人の備えとしています。藩は鳥ヶ峰で大砲と鉄砲を撃ちかけ、天誅組を敗走させました。高取側は死者がなく、負傷者は軽傷の二人だけでした。この働きは、京都守護職の松平容保からほめられています。その夜の吉村寅太郎の夜襲も失敗に終わりました。

払い下げられた建物の行方

明治六年(1873年)に廃城となり、建物は入札で払い下げられました。山上の建物は明治二十年代までにすべて失われたと伝わります。ただし、移された門がいくつか残っています。

  • 二の門:町内の子嶋寺の山門
  • 松ノ門:一度は小学校の校門となり、平成十六年(2004年)に町内の児童公園の門として建て直された

山上には建物こそありませんが、天守台や門・櫓の跡、石垣が、ほぼもとの規模のまま残っています。城跡は昭和二十八年(1953年)に国の史跡に指定されました。

場所・アクセス・地図

奈良県高市郡高取町高取

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