二本松城:幕末時は二本松少年隊の悲劇を生んだ丹羽氏の居城 二本松城【お城特集 日本の歴史】

二本松城

二本松城は、福島県二本松市郭内にあった平山城です。別名「霞ヶ城」とも呼ばれています。城跡は平成19年(2007年)7月26日に「二本松城跡」として国の史跡になっています。二本松の市街地の北にあり、ふもとの館と、標高345mの白旗ヶ峰の上の城とを組み合わせた平山城です。山の上から城下まで、段々に郭が連なっています。

室町時代初期に室町幕府より奥州探題に任ぜられた「畠山高国」が塩沢・殿地ヶ岡に居を構え、地名を二本松と改称したとされています。城を最初に築いたのは畠山氏の7代・二本松満泰で、応永21年(1414年)のことと伝えられます。畠山氏はそのまま二本松の領主(二本松氏)として根を下ろしましたが、戦国時代の末に伊達政宗に攻められます。持ちこたえられなくなった15代の二本松義継は、天正13年(1585年)10月、政宗の父・輝宗に降参を申し入れました。

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ところが、降伏のあいさつに輝宗を訪ねた義継は、その場で輝宗を捕らえて二本松へ連れ去ろうとします。知らせを受けて追いついた政宗は、父を人質に取られたまま鉄砲を撃たせ、義継も輝宗もともに命を落としました(粟之巣の変)。政宗はすぐさま二本松城を攻めますが、城方は義継の子・国王丸を立てて立てこもり、周りの同盟する大名も助けに来ました。二本松城が伊達の手に落ちるのは、翌年のことです。城は政宗の猛攻によく耐えたが、翌1586年(天正14年)7月16日、政宗への内通者も出たため、相馬義胤の口添えにより二本松城は開城し、ここに二本松氏は滅亡しました。

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政宗は「片倉景綱」を二本松城代としました。天正19年(1591年)、秀吉の小田原攻めのあと政宗が岩出山へ移されると、二本松城は会津若松の蒲生氏郷の持ち城の一つになりました。慶長3年(1598年)蒲生氏郷が死去すると蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入ることになり、下条忠親が城代となりました。

慶長5年(1600年) 徳川家康に敵対した上杉景勝は「関ヶ原の戦い」の後、米沢城に移されました。その後、会津の城主はたびたび替わります。慶長6年(1601年)に氏郷の子・秀行が会津へ戻ったときには、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松の城代を務めました。寛永4年(1627年)、蒲生氏が伊予国松山に転封となると、会津には加藤嘉明が入封しました。寛永4年(1627年)に加藤嘉明が会津に入ると、二本松には加藤家の与力として松下重綱が下野の烏山から五万石で入りました。

ところが重綱は翌寛永5年(1628年)に亡くなり、子の長綱は三春へ移され、二本松には嘉明の次男・加藤明利が入ります。寛永20年(1643年)、嘉明の子・明成が改易となり、明利の子・明勝も本家と同様に改易となりました。そして寛永20年(1643年)、白河小峰城から、織田信長の重臣・丹羽長秀の孫にあたる丹羽光重が十万七百石で入りました。光重は二本松を十万石の藩の城にふさわしい姿にするため、城を大きく造り直します。

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本丸に石垣を積み、三重の天守を建てたと伝えられます。それから明治維新まで、二本松は丹羽家の城でした。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。7月29日、藩兵の多くが白河方面の守りに出ていて城が手薄になったところへ、新政府軍が一気に押し寄せ、城はわずか一日の戦いで落ちました。兵が足りない城を守るため、12歳から17歳の少年たちまで戦場に出ました。のちに「二本松少年隊」と呼ばれる彼らの多くが、この日に命を落としています。この戦いで城の建物の多くが焼けました。

藩主の丹羽長国は米沢へ逃れ、9月に降伏しています。石高が半減されたが二本松藩は存続しました。しかし、明治5年(1872年)になると、廃城令によって残る建物も全て破却されました。いまは「霞ヶ城公園」として整えられ、石垣と、建て直された箕輪門を見ることができます。山の上の本丸では、近年になって天守台と石垣が積み直されました。箕輪門の近くには、戦った少年たちをしのぶ「二本松少年隊群像」が建っています。

※写真は二本松城と幕末時に多くの悲劇を生んだ二本松少年隊碑
二本松城:幕末時は二本松少年隊の悲劇を生んだ丹羽氏の居城 二本松城【お城特集 日本の歴史】

目次

霞ヶ城の構造と、落城の日の人びと

白旗ヶ峯の石垣

二本松城は、標高345メートルの白旗ヶ峯に築かれた平山城です。山頂に本丸、東に二の丸・三の丸を置き、範囲は東西約560メートル、南北約640メートルに及びます。本丸の下の石垣は、蒲生氏郷の時代に穴太積みで築かれたとされます。山麓の高石垣は加藤嘉明の時代のものとされます。天守については、丹羽光重が三重の天守を築いたとする説があります。一方で二本松市は、天守があった記録も痕跡も確認されていないとしています。

七月二十九日、一日で落ちた城

慶応四年七月二十九日、藩兵の多くが白河口に出ていた隙を突かれ、城は一日で落ちました。大壇口では、二十二歳の砲術師範・木村銃太郎が率いる少年たちが、新政府軍を迎え撃っています。城では、家老の丹羽一学(富穀)ら重臣たちが城に火を放ち、自刃しました。少年隊の人数は二十五名とも六十二名とも伝わります。なお「二本松少年隊」という名は、のちの五十回忌のときに付けられたものです。

戒石銘と洗心亭

城跡には、藩士の戒めを刻んだ戒石銘碑が残り、昭和十年に国の史跡に指定されています。本丸の下にある洗心亭は、城跡に唯一残る江戸時代の建物です。箕輪門は昭和五十七年(1982年)に復元されました。本丸の石垣は、平成五年から七年にかけて修築・復元されています。城跡は平成十九年(2007年)に国の史跡に指定されました。

二本松城が落ちた戊辰戦争の戦いは、こちらで詳しく解説しています。
二本松の戦いとは?主力不在の城が1日で落ち、二本松少年隊が散った戊辰戦争を図解でわかりやすく

場所・アクセス・地図

福島県二本松市郭内

参考資料:Wikipedia日本語版「二本松城」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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