磐城平城:岩城氏改易後に鳥居忠政が入封 幕末では安藤氏が新政府軍へ徹底抗戦し落城した磐城平城【お城特集 日本の歴史】

磐城平城は現在の福島県いわき市にあった平城です。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、陸奥国磐前郡磐城平の飯野平城主「岩城貞隆(佐竹義重の三男)」は実の兄である「佐竹義宣」の命により上杉討伐軍に参加しなかったため所領を没収されています。

磐城平城/アクセス・場所・地図 岩城氏改易後に鳥居忠政が入封 幕末では安藤氏が新政府軍へ徹底抗戦し落城した平城【お城特集 日本の歴史】

当時の岩城氏の所領は十二万石と言われていました。(後に信濃川中島で一万石を許され、のち出羽亀田藩へ移ります)岩城氏が去った飯野平には徳川家重臣の「鳥居忠政」が十万石にて入封し、磐城平城の築城を開始し城を移しました。

元和八年(1622年)、鳥居氏は出羽国山形城へ加増転封となり、変わって内藤氏・井上氏などのいずれも譜代大名がこの地を治めました。これは仙台の伊達家への抑えとして配された言われています。

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井上氏が転封になると安藤氏が入封し、そのまま幕末を迎えました。なお、5代藩主「安藤信正」は幕府の老中を務めていたが、文久二年(1862年)、「坂下門外の変」にて浪士らに襲撃され負傷してしまいます。

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これが武士道に反するということで平藩は四万石に削減されました。戊辰戦争が始まると磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍に対抗しました。

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新政府軍が磐城平城に攻めよせると、三度目の総攻撃で城は支えきれず、城方は自ら城に火を放って退去しました。城跡のうち内堀の名残である丹後沢は丹後沢公園となり、本丸跡は令和八年(2026年)四月に「磐城平城しろあと公園」として開園しました。

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目次

三度攻められて、三度目に落ちました

磐城平城の戊辰戦争は、一度の攻防ではありません。いわき市の連載「いわきの戊辰戦争」と市の『磐城平城文献等調査報告書』によれば、三度の戦いがありました。

一度目は慶応四年六月二十九日。新政府軍が湯長谷館を出て堀坂で交戦し、長橋の南岸に築かれた同盟軍の土塁陣地と撃ち合って、夕方に引き分けています。二度目は七月一日。薩摩藩と大村藩が谷川瀬口から攻め込んで新川町のあたりで激戦となり、このときは新政府軍が敗走して、同盟軍が追撃しました。小藩の城が、官軍を二度退けたことになります。

三度目の七月十三日は、二度の失敗をふまえて攻め方が変わりました。小名浜から海沿いに豊間・薄磯へ、小名浜から鹿島街道へ、湯長谷城から湯本・堀坂の内郷へ、と三つの道を同時に進む同時進撃です。田町では薩摩藩本府小銃九番隊が才槌門を破り、城西の広小路では六間門をめぐる激戦になりました。砲撃で高麗門のかんぬきが折れて扉が開いてしまい、守備側は米蔵から米俵を十五、六俵運んで塞いだと記録されています。

火をつけたのは、城の側でした

十三日の夕方から本丸御殿で軍議が開かれました。砲弾はおよそ二千発あっても大砲の弾はわずか、頼みの米沢藩の援軍も来ない。退城が決まります。家老の上坂助太夫は「城とともに討ち死にする」と言い張ったものの、相馬藩の相馬将監に説得されて折れ、夜十二時ごろ大手門から黒門を抜けて平窪方面へ去りました。

このとき城に火を放ったのは、攻め手ではなく城方です。市の報告書は「夜に入り、自ら焼きて去る」という史料を引いています。本丸のほか、行家・青雲院・光景寺が焼けました。翌十四日の未明、新政府軍が誰もいない本丸に入っています。

天守はなく、三階櫓が城の顔でした

磐城平城に天守はありません。代わりに本丸の東端に立っていた三階櫓が城の象徴でした。市の報告書によれば、当初は三重三階で、内藤氏の時代に二重三階へ改められ、高さは四丈三尺一寸、およそ十三メートル。下の重は五間に七間という大きさです。ほかに大手門櫓、中門櫓、櫛形門櫓、六間門櫓、八棟櫓、塗師櫓、弓櫓、矢櫓、太鼓櫓などが並んでいました。

城の分類も資料によって違います。いわき市の報告書は台地の南に田町曲輪という低地部を含むことから「平山城・天守無し」と分類していますが、平城とする資料もあります。

丹後沢の名は、人柱の伝説から来ています

丹後沢は、もともと内堀の一部でした。十七世紀の末に東西が陸地化して沼のような形になり、本丸・二の丸・三の丸を分ける水面として残ったものです。長さはおよそ三百二十メートル、幅は約三十メートル、水深は最大で三メートルほど。南北の高台からの湧水を集めるので枯れず、明治のころまで飲み水に使われていました。

「丹後」という名は、築城のときにこの沼を貯水池に広げようとしたが大雨で何度も堤が崩れ、菅波村の古老・丹後が人柱に立ったという伝承にちなみます。児童公園になったのは昭和五十一年、「丹後沢公園」として整備されたのは平成九年三月のことです。平成二十二年からは毎年九月に「龍が城月見の宴」が開かれています。磐城平城が「龍ヶ城」とも呼ばれた名残です。

本丸跡には、御殿の茶室にちなむ建物が立ちました

本丸跡は平成十七年四月にいわき市の史跡に指定され、令和八年四月十一日に「磐城平城しろあと公園」として開かれました。広さはおよそ一・五ヘクタール。芝生広場と憩いの広場、展望デッキがあり、園内には城の遺構である「白蛇堀」が現存して、いまも歩くことができます。市の報告書は白蛇堀を水之手曲輪の細長い堀とし、湧水点を確認しています。

体験学習施設の愛称は「緑天庵」。御殿にあった茶室の名にちなみます。文化体験室、情報発信室、展示交流室の三室があり、高精細CGで城を復元するVRシアターとジオラマを備えています。開園に合わせて、旧藩主の安藤家から掛け軸三幅が寄贈されました。

安藤家の石高は、資料で食い違います

安藤家の入封時の石高は、辞典類が五万石とする一方、六万七千石とする資料もあって一致しません。確かなのは、文久二年に安藤信正が老中を罷免されたあと二万石を減らされ、幕末の公称が四万石になったことです。信正は同年八月に隠居して謹慎の身となりますが、戊辰戦争では輪王寺宮を支え、落城後も作戦を立てました。降伏状は磐城平藩の名義で出されています。明治四年十月八日、五十二歳で亡くなりました。

養子の安藤信勇は慶応四年五月に新政府へ恭順を誓っており、城代・上坂助太夫の抗戦は藩主の意に反するものでした。明治元年十二月七日に謹慎と陸中国磐井郡三万四千石への移封を命じられますが、翌明治二年八月三日、七万両の献金と引き換えに旧領へ戻っています。華族令で子爵を授けられたのは、信勇の養子となった安藤信守です。

なお、泉藩陣屋や湯長谷城など、いわきの城には同じ戊辰戦争の別の顔があります。

磐城平城の櫓と、平から出た人

天守代わりの二つの櫓

磐城平城には天守がなく、本丸南隅の三階櫓と、南東隅の八ツ棟櫓がその代わりを務めていました。本丸・二の丸・三の丸が南から北へ一直線に並び、白蛇堀と丹後沢が曲輪を区切っていました。

残った一つの門

明治六年の廃城処分で、櫓八つと門十三などが民間に売り払われました。そのうちの一つ、搔槌門がいまも残っています。平成から令和にかけて本丸跡の整備が進み、令和四年に「磐城平城本丸跡」として市の史跡に指定されました。

天田愚庵

平藩士の家に生まれた天田愚庵は、戊辰戦争で平城が落ちたとき、まだ十五歳でした。戦乱の中で父母と妹の行方が分からなくなり、愚庵は生涯をかけて家族を探し続けます。のちに清水次郎長の養子となって『東海遊侠伝』を著し、晩年は京都で歌人として過ごしました。

場所・アクセス・地図

福島県いわき市平

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